3.
重いトレイを抱えて、エセルは自室へ戻った。
やはりというべきか、扉の前にキートの姿はない。
両手がふさがっているので、声を上げた。
「キート」
どたどたと足音がして、室内からキートが顔をのぞかせた。
「構うなと言っただろう」
「違う違う。ロッツが窓から出てったらヤバいだろ? 中で見張ってたんだよ」
一理ある。
が、片手にトランプを握りしめていては説得力は死んでいる。
「黙ってるのも気まずいじゃん?
だからコミュニケーションを、と思って」
キートはロゼットに向かって、ぱっとトランプを広げた。
まずは両手で軽やかにスイングカット、続けて片手でワンハンドカット。
鮮やかに、右手から左手へとカードを滝のように落とし、次には右手ではじいて左手に戻す。
仕上げはリフトシャッフルだ。二つの束はみごとに絡み合う。
「どうよ!?」
勤務中に磨かれたムダ技は、雇い主には白い目をされたが、観客には熱い目で見られた。
ロゼットはベッドから身を乗り出している。
「一緒に遊ぼうぜ。ババ抜きって――」
「しまえ。食事だ」
エセルは寝台の向こう、窓際のテーブルセットにトレイを置いた。
「おまえの分だ。食べろ」
ロゼットは料理を一瞥し、表情を固くした。
寝台のそばから動こうとしない。
パンを見せても、嫌そうに顔を逸らす。
「どうした。腹が空いただろう」
近づくと、ロゼットはまた身を引っ込めた。
天蓋から垂れる帳を、素足に巻き付ける。
「……食事の前に、その格好をどうにかすべきだったな」
こいつにもちゃんと羞恥心というものがあったんだな、とエセルは密かに感動した。
キートに命じて、ロゼットの部屋から服を取って来させる。
シャツにタイにベスト、スラックス。いつもの一式が寝台に並べられた。
「あっちが衣裳部屋だからさ。着替えてこいよ」
キートが扉を指すが、ロゼットは動かない。
服を前に、なぜか当惑した様子だ。
「伯爵、なんか組み合わせおかしい?」
「普通だ」
「他のがよかったのかな」
キートはもう一度出て行き、色違いを抱えて戻ってきた。
「これでど?」
「……」
ロゼットは何か言いたげに口を開いた。
が、声にならない。
短い髪を引っ張り、恥じ入るように縮こまっている。
「伯爵、何が悪いかわかる?」
「わかるわけないだろう」
二人はひそひそ言葉を交わし合う。
こうなると、普段のはっきりとした物言いがいっそ恋しい。
「もっと可愛いのがいいのかなー。伯爵、ピンクでレースなのない?」
「あるか!」
エセルが怒鳴った瞬間、ロゼットが服を掴んだ。
「着ないと怒られる!」と思ったらしい。
「待った待った待った! もう一回! 次は当てるから!」
キートは持ってきた服を全回収し、去っていった。
そして今までの倍以上の時間をかけて戻ってきたが――
持ってきたものに、エセルは顔をしかめた。
「……なぜ毛布なんだ」
「いろいろ考えたんだけど、わかんないから。
とりあえずこれ被っとけば、肌は隠れるよなって」
今度は、ロゼットは素直に受け取った。
ほっとしたように毛布にくるまる。
「……じゃあ、私は寝るから。キート、見ておけよ」
「はーい。ロッツ、ほら。メシ食おうぜ」
ロゼットがテーブルに就くのを見届けて、エセルは天蓋を閉めた。
寝台へと倒れこむ。
「食べないの? これうまいよ。スープだけでも――」
遠慮のない話し声。
うるさく思ったが、疲れ切っていた。
意識はすぐに眠気に飲みこまれた。
次に目覚めた時、太陽は真上を過ぎていた。
思ったより眠ってしまったが、おかげで頭は冴えていた。
(……静かだな)
嫌な予感を覚えたが、幸いに外れた。
どちらもちゃんと室内にいた。
キートは未完成のトランプタワーを前に舟をこいでおり、ロゼットの方は隅で寝ている。
結局、朝食は食べなかったらしい。手つかずのトレイが文机の上に移されていた。
(寝ている間に、終わらせるか)
エセルは静かに、隅で丸まっているロゼットに近づいた。
(警戒心が強すぎる。説得していたら、日が暮れる)
小さく呪文を唱えながら、距離を詰める。
あと三歩、二歩、一歩――
長い金色のまつげに縁取られたまぶたが、ぱちりと開いた。
「――伯爵! 危ない!」
キートに言われるまでもなく、エセルは身を引いていた。
のど元を銀の刃がかすめた。
朝食のトレイに添えてあった食事用のナイフだ。
「この阿呆! 凶器を放置するな!」
「いやだって! おとなしくなってるから大丈夫かと!」
腐っても護衛だった。キートはエセルを背後にかばい、とっさにテーブルを蹴倒した。
だが、その程度で止まるロゼットではない。
小柄な体は跳ねて、倒れたテーブルの縁に飛び乗った。
そのままキートの腕にナイフを突き立てる。
「――いってえええ! なんでそーゆーのは覚えてるワケ!?」
相変わらず態度はびくびくおどおど。
追い詰められたかわいそうなネズミの様子だが、構え方は完全に実戦のそれだ。
「ちっくしょー、まともにやったら勝てねーし!」
キートは砂糖壺を掴み、ロゼットに向かって中身をぶちまけた。
相手がひるんだすきに、距離を取る。
「伯爵、今のうち出ろ!」
「なんとかするからどけ!」
「魔法なんて使ったら、よけい警戒されるって!」
――そのとき。
「……キート?」
小さなつぶやきに、二人は動きを止めた。
「……今、何か言ったか?」
「俺の名前、言ったよな?」
期待をこめて振り返る。
ロゼットはナイフを下ろしていた。
口元を押さえ、首を傾げている。
「ロッツ、もう一回! 俺の名前は!?」
「……え……っと」
だが二度目は出ない。頭上に疑問符が浮かんでいた。
「一瞬だけ戻ったのか?」
「何かきっかけがあったんだろう」
「……ひょっとして、砂糖?
最初会ったとき、砂で目潰ししたことあったから」
「理由は後でいい。ヤナルのところへ行け」
エセルはトレイにあったナプキンをつかんだ。
キートの刺し傷に押し当てる。
「すまん。寝ている間も物騒なことを忘れていた」
「はは。いつものロッツじゃねえし、調子狂うよな」
ロゼットはもう攻撃してこなかった。
こちらもキートの傷を心配そうにしている。
「あの様子なら、おまえがいない間に逃げはしないだろう」
「仰せのとーりに。ロッツ、あとで遊ぼうぜ」
キートが出ていくと、ロゼットはテーブルセットを直しはじめた。
トランプも拾い集め、ケースへ戻す。
肩がしょんぼり落ちている。
「寝ているときに近づいて悪かった。記憶を戻そうとしたんだが」
「……あなたは、お医者様なの?」
「いや、魔法使いだ」
明かすなり、ロゼットはあからさまに距離を取った。
「何もしない」
「……さっき、何しようとしたの?」
「さっきは――」
エセルは言い淀んだ。
魔法で眠らせようとした――は、彼女にとって傷つけられるのと同じことだろう。
治療の目的であったとしても、知らない相手に意識を奪われるのは恐怖だ。
「……記憶がなくても、生きてはいけるから。思い出せなくても、いい」
片付けが済むと、ロゼットはさっさとこちらに背を向けた。
(確かに。困らないだろうな)
記憶がなくても、人は生きてはいける。
眼の前にいる人物一人思い出せなくても、生活に支障はない。
困って焦っているのは、エセルだけだ。
銀色の前髪をくしゃりとかき上げる。
(……最悪だ。失敗に焦り、さらに失敗とは)
事を急いたせいで、完全に信用を失った。
本日何度目かのため息がもれた。
キートが戻ってくると、エセルは自室を出た。
ロゼットがかたくなに視線を合わせようとしないので、同じ空間にいるのが気まずい。
午後中、図書室や庭園で時間を潰すハメになった。
そして夜になると、また食事を運んだが、やはりロゼットは食べない。
「食べろ。身体がもたんぞ」
「これ、好きじゃなかったっけ? 食べろよ」
エセルに代わって、キートがあれこれとりなす。
キートの方は避けられていなかった。
肩が触れそうな距離にいても、ロゼットは気にしないでいる。
「俺のこと完璧に思い出せなかったけど、なんとなく覚えてるのかな、急に距離が近くなってさ。
一緒にゲームして遊んでくれるし、腕のこと心配してくれるし。
最初は戸惑ったけど、慣れてきたよ」
で、とキートは首をかしげた。
「ロッツの記憶は、いつ治すんだ?」
「とりあえず、今日は無理だ」
「伯爵、明日は出かける予定があったよな」
「だから明日も難しい。少なくとも、明後日までこの状態だ」
「ロッツ、どうする? 自分の部屋に移すか?」
「……連れ出せそうか?」
キートは窓際を振り返り、難しい顔をした。
ようやくこの場に慣れてきたらしい。ロゼットはテーブルに座り、トランプタワーを作ってのびのびと遊んでいる。
「うちの猟場番のじいちゃんの話によると、動物が一度慣れた寝床を変えるのは、ストレスを与えるのでよくないっていってたような」
「無理なんだな」
「でも、気の合わない相手と一緒にしておくのもよくないっていってて」
「私に出ていけと言いたいんだな?」
「いやいや、そんなことは」
「いい。私が他で寝る。幸い、この城には腐るほど部屋があるからな」
「伯爵、そんなヘソ曲げるなよー」
「曲げてない」
こうして伯爵様は、城主でありながら自室を追い出され、一晩を客室で過ごした。




