最悪の黒-015_薬師
「旅の道連れ、だと?」
すっとハクロが目を細める。対してリリアーヌはさも「名案だろう?」とでも言いたげにふふんと口角を釣り上げた。
「君と語らったのは一晩だけだが、それだけでも君の生きた世界とこの世界はありとあらゆるものが異なるというのはすぐに分かった。君が、君の世界で言うところの『常識』から逸脱した領分で生きてきたことを差し引いても、この世界はそこからさらに逸脱している。君が追い求めている探し物とやらがどんな物、もしくはどんな技術かは知らないが、そんな曖昧な探し物の旅に一人旅立つのを黙って見送るほど、私は不義理ではないつもりだよ。弟子を救ってくれたお礼に弟子を連れて行きなさい。おやおや、これでは囚われのお姫様を救った勇者に娘を差し出す王様の気分だ」
「いらん世話だ、必要ない」
「必要ないことはない。だって君、この世界の文字書けないだろう」
「…………」
端的な物言いに、ハクロは閉口する。それを見てリリアーヌはやれやれと肩を竦めた。
「言語は君の旅路には避けて通れない壁だ。翻訳の魔導具もあることだし、会話と読み物に苦労することはないだろうが、書き物は別だ。君は賢いし、全く馴染みのない言語だろうと数か月で習得するかもしれないだろうが、そんなものはただの遠回りだ。だが先達がいれば数か月が数週間に縮むだろうね」
「…………」
「そんなことにも気付けないほど、君は愚か者ではないはずだろう? 君はどうやら短命種族であるようだし、先の見えない探し物で焦っているのかもしれないが、一呼吸入れたまえよ。ええと、古語で何と言ったかな。ああ、そうだ」
笑みを崩さず、リリアーヌは言葉を続けた。
「急がば回れ、だ」
「…………。心遣いには、感謝する」
居住まいを正し、ハクロが椅子に座り直す。だが、と蚊帳の外で放置されていたリリィに視線を向けた。
「この嬢ちゃんの意志はどうなんだ」
「……はっ!?」
その時になって意識を取り戻したかのように、リリィは顔を上げてリリアーヌに食って掛かる。
「そ、そうですよ!? いきなり異世界だなんだ言われてわけ分かんないし、その上ハクロさんの旅に着いていけって、そんな急に……!」
「おや、この男が嫌いなのかい? まあ確かに、三度も頭から吐いた物を被っては仕方がないだろうが、それは我慢しな」
「おい」
「二度目に私が頭からゲロを被った原因は師匠なんですよ!?」
「おっと、藪蛇だった」
そんなことより、とリリィは緩みかけた空気を一睨みで吹き飛ばし、話を戻す。
「そもそも、私が旅に出たら師匠はどうやって生きていく気ですか!? パンくらいしか焼けないくせに!!」
「残り短い人生、三食外食で済ませられるだけの蓄えはあるさ。どれだけ長いこと薬師をやってきたと思ってるんだい。それに元々、リリィはいつか旅に出させるつもりでいたんだよ」
しれっと、リリアーヌはそう告げる。
「職人ギルドに遍歴制度ってのがあってね、私たちが所属する医薬ギルドにも同様の仕組みがあるんだ。元を辿れば医術師や薬師が一つの土地に偏らないようにする制度だったんだが、今じゃとんと聞かなくなっちまった。おかげで地方の小さな村々は万年医術師薬師不足さね」
事実、エルフとしても高齢に部類されるリリアーヌでさえ、フロア村では現役薬師として働く羽目になっている。仮にリリアーヌが高齢を理由に引退すれば、村の住人は山一つ向こうの街まで足を運ばなければならない。そうならないためにも、リリアーヌは引退前に医薬ギルドから後任を引きずり出すつもりではいるが、それはともかく。
「本当なら師である私がリリィを連れて旅に出るのが一番なんだけど、私はこの村を離れられないし、そもそもこの老骨では長旅には耐えられないだろうさ」
「そんな、でも……でも、私は、もっと師匠から教えを――」
「リリィ」
同様で声が震えるリリィに、リリアーヌが優しく声をかける。
薬について教え説く時の試すような声音でも、自堕落で傍若無人な奔放老人然とした飄々とした口調でもない。我が儘な娘を諭すような、優しい声だった。
「私の薬師としての知識は、全部お前に叩き込んだ。あとお前に足りないものは経験だけだよ」
「師匠、でも、私は……」
それでもなお食い下がるリリィに、リリアーヌは小さく苦笑し、溜息を吐く。
「生まれたばかりのお前を私が引き取ったって話、覚えているかい?」
「……はい。大きな街から離れた狼人の集落で、お父さんは狩りの怪我が元で亡くなって、お母さんも、産褥熱で亡くなったって」
「そうだ。私はね、ずっと後悔してるんだ」
後悔――その言葉に、リリィは思わず肩が震える。
自分を弟子にしたことを、そもそも引き取ったことを後悔しているといわれたらどうしよう。リリアーヌのことを思えばそんな言葉が続くわけはないと頭では分かっていても、どうしようもなく、魂が恐怖する。
「あの集落の近くにいた医薬ギルドの医術師は他の患者にかかりきりで、薬師だが産婆の経験がある私が無理を通して対応することにした。その時にギルド内で揉めて、僅かばかり出立が遅れてしまった。……もう少し集落に早く着いていたら、リリィのお母さんは助かったかもしれない」
「そんな、でも、師匠……お母さんが助からなかったのは、師匠のせいじゃ……」
「患者をなんとかするのが私たち医術師や薬師の仕事だし、医薬ギルドの存在意義だ。私にはそれだけの知識があったはずなのにね」
私にはできなかった、とリリアーヌは瞳を伏せた。
「乱暴な言い方をしてしまえば、お前を薬師として育てたのは私の自己満足さね。助けられなかった患者に罪悪感を抱いて、その娘に自分の名前と知識を押し付け、それが良い具合に育ってきたから自分にできなかったことを勝手に託そうとしてる。それだけの話さ」
「……ッ!! そんな、言い方……!」
拳を握りしめ、リリィが立ち上がる。
それを見たリリアーヌはパン、とかしわ手を一つ打った。その音に、リリィは背筋をビンと硬直させ、一歩下がった。
ガタリと音を立てて椅子が倒れる。
「……お互い、ちょいと頭が熱くなりすぎたね。客人の前でする話でもない。リリィ、今日はもう部屋で休みな」
「…………」
「部屋で、休んでな」
「…………」
顔を背け、まだ何か言いたげな表情のままリリィは自分の部屋へと逃げるように駆け出した。





