最悪の黒-170_旅の仲間
「凄まじいな……」
闘技場の外周を囲うように聳える壁の上でレナートは自身の尾を抱えながら唸り声を上げた。
「姫様相手にあそこまで食いつける奴って『太陽の旅団』の中にいるか? 〝鷹〟のエリゼオならチクチク弓で遠くから撃ってりゃ何とかなるかもしんねえけど、まあ矢が尽きたら終わりだしな。殴り合えるとしたら〝殲滅鬼〟のウルグだろうけど、試合の概念がねえからなアイツ。変質者は論外として……ジジイはやれっか?」
「…………」
「おい。おいジジイ!」
「あ!? なんじゃ!?」
分厚い鎧を揺すって呼びかけ、それでようやくクリフが反応する。至近距離で降りかかる唾を手で防ぎつつ、鎧の首元に付与されている魔術を起動させた。
「ジジイなら姫様の遊び相手できるかって聞いたんだ!! 補聴魔導具切るな!!」
「舐めるな小童が! 儂ならば姫様の拳だろうと何発でも受け止めて見せるわい!」
「アンタも大概だよな……まあ実際にやったら魔術で丸焼きにされるだろうけど」
「そういう貴様はどうなのだ〝焔蜥蜴〟よ!」
「……無茶言うな」
苦虫を噛み締めるように顔を顰めつつ、レナートが吐き出す。
「仮にクソ姉貴と二人がかりだったとして10分持たせるのがせいぜいだろうな」
「ふむ! 試合が始まって5分弱といったところかのう! おい、〝山猫〟よ!」
「うん?」
隣の石面にどかっと腰を下ろしていたオセロットに問いかける。伸縮魔術は闘技場に転移した時に効果が切れ、床に腰かけてようやく同じだけの顔の高さになったオセロット相手に臆す気配も微塵もなく、変わらず唾交じりの大声を発する。
「貴様、よくあんな者を拾って来たな! でかしたぞ!」
「いやいや、儂が拾ったわけではない。彼が自ら傭兵ギルドの門扉を叩いたのだ」
「ああ、元流れ者って言ってたか」
オセロットの言葉にレナートが訝しげに首を傾げた。
通常、子が生まれたら僧侶ギルドに届け出を提出することで籍が与えられる。しかし大手を振って表を歩けない者の中には届け出を出せない者もおり、そういった者たちの子には犯罪に手を染めたわけではないが籍がない場合がある。
その手の類の者を総称して流れ者と呼ぶが、ハクロもその一人だったという。
流れ者はその名称の通り、人里と交わらないか盗賊ギルドとして裏社会で消耗品のように命を散らすことが多いため、腕は立つが有体に言って学がない者が多い。
ハクロの戦闘技能の高さは見ての通りだが、それは裏社会で育まれた独自技法だとしても、妙に教養高く、思慮深い。
「なんなんだろうな、アイツ」
そんなレナートの呟きはハスキー連峰から吹き抜ける風音によって誰に届くでもなく打ち消された。
* * *
そんな三人と若干の距離を開け、バーンズとティルダ、エーリカ、そしてリリィが集まって腰かけていた。
「…………」
その中でもリリィはぺたんと腰を抜かしたように姿勢が崩れ、闘技場を見るでもなく、無為に組まれた自身の指先に視線を落としていた。
薬草を扱うため、不衛生にならないよう手入れされた爪。
万が一にも薬に混ざらないよう小まめに剃毛し、乳薬を塗ってつるりもちもちとした手の甲。
装飾品の類はなく、手の洗いすぎで若干赤みを帯びた指先。
見慣れた自身の手。
今見る必要なのない、なんの変哲もない手。
しかしそこから視線を持ち上げることができない。
「…………」
大きく息を吸い、吐き出す。
それでも視線は持ち上がらない。
「……ねえ、リリィ」
「あ……」
そこに大きな手が重ねられた。
ドワーフらしい大きく太い指と甲に、生傷や火傷痕がそこらに残っている。
逞しく、それ以上に美しい職人の手。
「見て……あげないの?」
ティルダがそっとリリィの顔を覗き込んでいるのが、なんとなく伝わった。
「私……えっと……ハクロさんが……戦ってるの……は、初めて見て……」
その情けなく震えた声に、自分でも驚く。
出会ったばかりのティルダとそう変わらないように感じた。
「えと……いえ、初めて見たって言うとちょっと違いますよね。一緒に旅してて、魔獣を追い払ってもらったことも何度かありますし……バーンズさんとの手合わせも何度も……でも……」
でも――ハクロが傷つき、膝を折るのを見たのは初めてだ。
傭兵崩れの人攫いから助けてもらった時も。
突発魔群侵攻を一人で対処してしまった時も。
北の果てで強大な魔物と対峙した時も。
無茶な手法で坑道調査をいくつも片付けてしまった時も。
ハクロは一度だって傷つかず、軽く笑って、何でもないようにリリィの元に帰ってきた。
だから心のどこかで勘違いしてしまっていたのだ。
ハクロは傷つかない。
ハクロは失敗しない。
ハクロは負けない。
けれどハクロだって傷つき、失敗し、負ける――それが目前まで迫っていると気付いたら、ハクロをまっすぐに見ることができなくなった。
怖い。
見たくない。
ハクロが傷つくことが受け入れられない。
「まあ、気持ちは何となく分かるかな」
ティルダとは反対側、リリィを挟むように地面に胡坐をかいていたバーンズが苦笑した。
「ハクロさんってすげー強いし、やたらと器用だから万能感? があって負けるの想像しにくいんだよな」
「ですねー。けどあそこまで一方的とは流石に思わなかったですー。姫様強すぎますよー」
さらにバーンズを挟んで反対側に腰かけていたエーリカが溜息を洩らす。
その言葉にきゅ、と組んだ指に力が入る。
視線は持ち上がらず、相変わらず無意味に爪先を眺めていた。
「でも思うんだけどさ」
バーンズが小さく呟きながら、そっとリリィの手に自分の手を重ねた。
ゴツゴツと節くれ立ち、ティルダ以上に傷だらけの――守り、戦う者の手だった。
「ハクロさんがちゃんと無傷で帰ってくるのって、リリィ先輩がいるからだよな」
「え……」
「あー、わかりますー。あの人、リリィさんがいなかったらもっと無茶苦茶で効率重視の戦い方すると思いますよー。怪我もリスクのうちとか言って結果コスパがよくなればいい、みたいなー」
「…………でも、んと……そうしないのは……リリィが一緒に……旅をしてるから」
ティルダがリリィの手を優しく包み込む。
「ハクロさんは……すごい人。強いし、頭もいいし、でも…………目的のためなら、過程は度外視するタイプ……う、ウチもそうだから……何となく分かる」
「お前はそうだよな」
「でもウチは……ルネちゃんの友達だから…………ルネちゃんの目的のために……、ううん、ルネちゃんと一緒に海の外を見に行くために……ちゃんと、危なくない選択肢を選んでる」
「結構ギリギリですけどねー」
「えっと……だから、その……ハクロさんも、リリィのために危なくない戦い方をしてる…………だから、その……」
ふう、と一息。
はあ、と一つ吐き、ティルダが言葉を続けた。
「ハクロさんはちゃんと、リリィを…………仲間だって認めてるから、リリィのために自分を危険に晒す、選択肢を選らばない、の。リリィのために、リリィと旅が続けられるように、ちゃんと帰ってくるために。だから…………リリィもちゃんと、ハクロさんを見てあげて欲しいの……一緒に旅をしてる、仲間なんだから……」





