最悪の黒-148_傍に
「ハクロさん!!」
喉の奥から呻くような掠れた声を絞り出した途端、覆いかぶさるように柔らかな甘い洗髪剤とほろ苦い薬草が混じった香りがした。
重い瞼を持ち上げ、起き上がろうとしたが上手くいかない。目の上に濡れたタオルが置かれているのは感触で分かったが、それ以外の感覚がいまいちはっきりとしなかった。
大きく息を吸い、吐く。
口や鼻から空気が肺に送り込まれ、そこからさらに酸素が全身へと運ばれる。
同時に全身の魔力の流れに意識を向ける。
下腹部――丹田を中心として全身に毛細血管のように巡っている魔力の微細な一本一本に目を向け、その所在を手探りで再把握する。
そうすることでようやく己を――ハクロという自分自身を確立することができた。
「どれくらい、気を失っていた」
しわがれ、ひび割れた声が喉の奥から零れる。
「5日です……」
「……そう、か」
再び上半身を持ち上げようとするが、やはりまだ上手くいかなかった。それ以上に、意識が明確になり始めたことで眩暈と吐き気が込み上げてきてしまう。寝かされているベッドごと水車で回されているような不快な浮遊感があった。
「まだ無理に起き上がろうとしないでください」
「……分か、った。……俺、は、どうなった」
「えっと……あの魔石の洞……〝玩具箱〟に触れた直後、耳と鼻、目から血を流して倒れたんです」
「…………」
自分が想像していたよりも随分と悲惨な状態だったらしい。
「倒れたのが湖都でよかったですね。医術師はいませんが、未公表の治癒魔術の魔術書はいくらでもありましたから。ハクロさんたちが綺麗に分類してくれていたので、すぐに必要な魔術を引っ張り出すことができました」
「そ、うか……」
「術者はティルダさんにお願いしました。本人曰く本業じゃないのでちょっと乱暴な治療になってしまったかもしれませんけど、ザラさんに頼むよりは、その……いいかと判断しました」
「……でかした」
なし崩し的にハクロの秘していた正体が露呈してしまったとは言え、あの盗賊ギルドの尼僧については今後どうするかをはっきりとさせる前だった。そんな状態で貸しを作りたくはなかった、もしくは今回の依頼に巻き込んだ借りを返されたくなかったというのが本心だったからだ。
「あい、つ、ら……は……」
「お二人は書斎の整理を続けてもらってます。ジオフェルン……さん、が、また魔術書を書き始めちゃったので」
それについてはおおよそ予想通りだと内心呆れた。むしろ意識を失ったハクロを魔法で強制的に叩き起こすくらいのことをすると思っていたのだが。
いや、と全身に改めて巡らせていた魔力の流れが燻っている右手首を思い出す。
対話を対価とした、ジオフェルンとの契約魔法。あの魔術書の解読が完了していない以上、ジオフェルン側からハクロに対して害のある行動は制限されるようだ。
これのおかげでジオフェルンの強行を防げたのだとすれば、とんだ怪我の功名であった。
感謝する気は微塵も起きないが。
「とにかく、目に見える範囲の出血は治まってますけど、三半規管とかはまだ万全じゃないと思いますから、今日はゆっくり横になっててください。この5日間何も食べてないのでお腹が空いてると思いますけど、大丈夫そうなら重湯を用意しますよ」
「……すまん。世話、かける」
「いいんですよ」
目の上に乗せられていたタオルの重みがなくなり、僅かな光が瞼越しに感じられた。
ゆっくりと目を開けると、寝泊まりに使っていた一室の天井が視界に入る。比較的魔石の侵食が軽微だった部屋を利用していたが、この数か月ですっかりと見慣れてしまった光景だ。
そこに薄茶色の毛色に水色の瞳の獣人の少女が苦笑を浮かべているのが見えた。
「私はルネ様みたいに引っ張って行ったり、バーンズさんみたいに一緒に戦ったりできません。ティルダさんやエーリカさんみたいな専門知識もありません。でもこうして、傷ついたハクロさんに寄り添えるくらいならできます。ハクロさんはいつも頑張ってるんですから、たまにはゆっくり休んでくださいね」
言って、少女は――リリィは替えのタオルをそっとハクロの目の上に乗せる。
熱を帯びた眼球の奥がひんやりと冷やされていく感覚が心地好かった。
「……ありがとよ」
「いえいえ」
ふう、と溜息を吐く。
呼吸を繰り返すごとに曖昧だった全身の感覚が少しずつ戻っていくのが分かる。
そして。
「…………」
この世界に来てから意識を失うほどの重症に陥ったのは三度目である。
一度目は渡来当日、魔力濃度の差に肉体が対応しきれずに昏倒した。二度目は年末年始、ルネの願掛け登山に拉致された際に急激な気圧差によりぶっ倒れた。
いずれもなんやかんやと翌日には復帰し、己の脚で歩ける程度には回復していた。
だが今回は意識を取り戻すのに5日を要し、どうにも自立すらも厳しい有様だ。
さらに平時であれば身体強化の応用で代謝機能をある程度誤魔化すこともできるのだが、魔力の流れを掌握しきれていない現状にある。
つまり。
「あ、私は一日傍にいますから、おトイレ行きたくなったら声かけてくださいね」
ベッドの下から独特の形状の壺を笑顔で取り出したリリィからは、薬師として純然たる善意しか感じられないのが逆に苦痛だった。





