最悪の黒-101_興味
物心ついた頃には両親はいなかった。
元々性に奔放な気質の兎人族の水商売であった母は行きずりの商人である父と関係を持ち、1年後に再び商売で街を訪れた父にエーリカを押し付けて花街へと戻っていったという。
父も父で群れることを好まないホビットらしいホビットであったため、エーリカの乳歯が生えそろって粥を食める程度に育つとさっさと知り合いの商隊に預け、ホビットらしく1人で金勘定の旅に出て行ったそうだ。
そのためエーリカにとって「家族」とは預けられた商隊のメンバーの事を指し、その商隊もまた今となってはこの世に存在しない。魔物に襲撃され、壊滅したからだ。
「時に、生き物は極限まで命の危険に晒されると生存本能が爆発して性欲が増大するという定説をご存じですかー?」
「ああ」
行きよりは多少静かな帰りの乗合馬車でエーリカに尋ねられ、ハクロは頷く。
己にしか分からない概念だが、元居た世界でホラーやスプラッタを題材にした映像作品でやたらと濡れ場シーンが差し込まれるのは「そういうこと」であるという話を聞いたことがある。
「数分前まで私を可愛がってくれていた商隊の人たちが次々に魔物に襲われていくのを見て、私も生存本能が爆発しちゃったんですよー。と言っても当時は私は8歳の子供でしたので、爆発したのは性欲じゃなく知識でしたけどー」
襲撃されたのは大陸南東部の乾燥した砂漠地帯。
発生した魔物は巨蠍系と呼ばれる一対の巨大な鋏と毒針のある尾を持つとされる種だった。頭数ではなく強い一個体が発生する傾向にあり、護衛の傭兵ギルドは何人かいたが、夜闇に紛れた完全な奇襲に態勢を崩され、瓦解した。
魔物は手当たり次第に商隊のメンバーや駱駝や竜馬を喰らっていき、横倒しにされた馬車の陰に隠れていたエーリカに気付く。
そして魔物がエーリカを捕えようと鋏を持ち上げた瞬間、頭の中でバチリと音が聞こえた気がした。
瞬間、魔物の動きと己の呼吸が酷くゆっくりになり、思考だけが加速する。
元々砂漠地帯を中心に商売していた商隊だ。砂漠の危険な生物については「家族」から口酸っぱく聞かされていた。その中の一つが蠍についてである。無論魔物ではなく、手のひらに乗るような小さな生物としての蠍だ。蠍と一口に言っても大まかに二通り存在し、尾に毒がある種とない種だ。有毒の蠍の最大の武器は当然ながら毒針だ。そしてその分、鋏は小さく獲物を申し訳程度に押さえつけられるほどの大きさしかない。対して無毒の蠍は尾の先に針はあるもののほぼ退化しており、代わりに鋏が巨大化する傾向にある。今目の前にいる蠍の姿をした魔物は巨大すぎて感覚がおかしくなるが、よく見れば鋏の大きさに対し尾が短く針も小さい。魔物が何故生物の姿を真似ているのかは未だに不明とされているが、元となった蠍に擬えているとしたら無毒のタイプだ。つまり気を付けるべきは目の前の大ぶりな鋏だけでいい。
そんな過密な思考が瞬きの10分の1にも満たない間に8歳の幼い頭を駆け抜け、鼻の奥が熱く燃えるような感覚が奔った。
それによりようやく思考と体の動きが結びつき、父親譲りの毛深い足と母親譲りの跳躍力で砂を蹴る。
そこで再び思考が加速し、時間がゆっくりとなった。
言わずもがな砂漠は足場が悪い。そこに生息する大型動物は足が特別な造りをしている。駱駝などが分かりやすいが、体格に対して足の裏の接地面積が広い。他にも蜥蜴なども足の指が長く、面積を増やすことで体が沈み込まないようになっている。これは砂漠を往来する商隊の装備にも用いられており、砂漠の馬車は車輪ではなく橇のような構造になっている。しかし蠍や昆虫などの小型生物にはそういった構造はあまり見られない。ないわけではないが、他地域同系種と比較しても差が小さいのだ。これは単純に彼らの体が小さく軽いため、そもそも砂に沈み込まないからだ。
ではあの魔物は?
足裏の体毛を挟んで砂の感触を感じつつ、ゆったりと飛翔するように駆けながら思考はさらに加速する。
ホビットの子供という輪にかけて小柄な自分から見ても、あの魔物は巨体が過ぎる。積み荷の詰まった馬車をひっくり返して見せたことからもかなりの重量があることは間違いないだろう。それでいて足元の砂原にはほとんど沈下が見られなかった。通常の蠍と同様に細く鋭い鉤爪のような脚にも関わらずだ。あの細さで砂に埋もれず重い馬車をひっくり返すなど不可能なはず。
「どうなっているんだろう――それが私が魔物に興味を持った最初ですねー」
「……なるほど」
一つ頷き、ハクロは溜息を吐く。
「この場合も吊り橋効果と言っていいのか……?」
「初恋も未経験の幼心でしたからねー。恋情と生存本能と知識欲がぐちゃぐちゃに結びついちゃっても仕方ないと思いますねー」
「それを本人がけろっと口にするのもどうなんだ」
「私としては不便は感じていないのでー」
ふすふすと鼻を鳴らしながらエーリカは笑う。
「その後は夜の砂漠をコロコロと駆け回って逃げ続けて、その間に護衛の傭兵が態勢を立て直して魔物を討伐してくれて助かったんですー。生き残ったのは私とその方だけでしたけど、身寄りをなくした私を養子に迎えてくれて魔術ギルドに入るまで面倒を見てくれたんですよー」
「魔物に襲われて『家族』を失ったはずの娘が魔物にのめり込んでこんなことになったのを何も言わなかったのか」
「微妙な顔してましたー」
「そうか」
娘の自主性を重んじつつも真っ当な感性は保っていた良い親だったのだろう。
「後はまあ、そうですねー。魔術師として知見を深めるために魔物の調査でフィールドを渡り歩いていたら姫様に拉致……じゃなくて勧誘されて、趣味と実益を兼ねた傭兵大隊生活を送ってますー」
そして案の定というか、エーリカもルネが直々に勧誘したようだ。その手法については不穏な単語が聞こえてきたため深入りはしないが、どうにもあの姫殿下は有能だが癖が強い人物を収集する癖があるようだ。
「まあ最近は少し、いえ、かなり仕事量的にハードでして……魔物と『触れ合う』機会が少なくなって、今日はちょっとだけ暴走しちゃいましたけどー」
「ちょっと?」
あのまま放置していたら毒牙を自分の腕に突き刺し、そのまま口に含みそうな勢いだったが、それを「ちょっと」とは言わない。
そして少し暴走とは言ったが、今回が初犯ではないのだろう。この街に来て最初の頃は魔物調査の依頼を主軸に受けていた他のソロ傭兵と行動を共にしていたはずだ。それが今や誰を誘っても断られるということは、彼女の奇行の噂が浸透しきっているのだろう。
ソロの傭兵とは言え、同行者が魔物に自ら突っ込んで毒に侵され死亡したなど、そんな馬鹿な報告をしたくないはずだ。本人は解毒剤の用意万端で臨んでいるとは言え、それに巻き込まれる側はたまったものではない。
「まあいい。この州都で魔物調査の依頼をする時は可能な限り俺が同行する」
「いいんですかー!? わー、良かったですー!」
歓喜のあまり垂れた長い耳がふわりと揺れる。
その思惑としては、単純に目の離れたところでくたばられては寝覚めが悪いというのが大きかった。今までは問題なかったとしても、あの様子だとそう遠くないうちに何かしらやらかす未来しか見えない。
「それに俺も魔物については少しばかり興味がある」
「お仲間ですかー!?」
「……それだけは違う」
まだほんのりと毒による腫れが残る頬をさらに赤らめ目を輝かせるエーリカに、そこだけは線引きして否定をし首を横に振った。





