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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第九章:沈黙の底

灯と出会ってしばらく経つと、凪は“沈黙にも種類がある”ことを知った。


教室の沈黙は、薄いガラスのようだ。

指で軽く弾けば音がして、そこに人の気配があり、すぐに割れそうで割れない。


病棟の沈黙は、もっと重い。

深い湖の底に沈められたみたいに、ゆっくりと体温を奪ってくる。


その沈黙の中心に、灯がいた。


凪はその日も面談を終え、白い廊下を歩いていた。

壁の白はやけに明るくて、光が濃い分だけ影が濃くなる。

その影の輪郭が、妙に“人の形”をして見えるのは、きっと凪の心が疲れているからだ。


病棟の休憩室に入ると、灯がいた。

奥のソファに膝を抱えて座り、窓の外をぼんやり眺めている。


「……灯」


呼ぶと、灯はゆっくりと振り向いた。

瞳の色がいつもより淡い。

薄い雲の膜を被った朝の光のように、輪郭が曖昧だった。


「ねえ凪くん。今日の面談、どうだった?」


「普通。あの先生、淡々としてるから話しやすいけど……なんか、全部“表面だけ”見られてる気がする」


灯は小さく笑った。


「精神科って、そういうところだよ。“なんでも受け止めてくれる場所”じゃないの。“転ばないように見張る場所”なの。」


その言葉は、病棟の空気以上に冷たく感じた。


「灯……今日は、なんか……」


言いにくいけれど、どうしても伝えたくて続ける。


「調子、悪い?」


灯は視線を伏せ、指先をぎゅっと握る。

その仕草が答えだった。


「……うん。ちょっとね。朝から、胸の中に重い石が入ってるみたいで。呼吸すると、その石の角が肺に刺さる感じ。」


言いながら、灯の声は細く震えていった。

凪は灯の隣に腰を下ろし、声を低くした。


「ここにいる間、俺がいるから」


言った瞬間、灯の肩が小さく震えた。

灯は凪の顔をまっすぐに見た。

その目には、言葉の裏を探るような、不安と期待が混じった色があった。


「……凪くんは、私の何?」


その問いは、鋭い刃物のように凪の胸に刺さった。


“何?”それは本来なら恋人とか友達とか、名称で答えられる種類の問いなのに、灯が聞いたのはそれではなかった。


“どういう存在として、私を見てる?”

“どれくらい、私と同じ場所にいられる?”――そういう意味だった。


凪は答えようと口を開いたが、灯がすっと手を伸ばして凪の手首を掴んだ。


「……ごめん。 ねえ、今日は“白い部屋”に入りたくないんだ。でも、入れられちゃいそうで怖い。」


白い部屋――観察室。

そこは、患者の状態が急激に悪化したとき、しばらく拘束される部屋だ。

灯は小さな声で続けた。


「ねえ……今日だけでいいから、私と話しててくれる? ここから動かないで。」


その声は、水たまりに落ちた雨粒みたいに弱くて、それでいて凪の胸に大きな波紋をつくった。

凪は灯の手を包むように握り返す。


「いるよ。帰らない。」


灯の表情が少しだけ緩んだ。

けれど、そのすぐ後に深い影が差した。


「凪くん。私、いつかね……」


そこで灯は言葉を飲みこんだ。

喉の奥に、言えないものが詰まっているように。


凪は静かに待った。


灯はようやく口を開く。


「……“自分がいなくなった後の光景”を想像する癖があるの。」


凪の心臓が一瞬だけ止まった。


「病棟の廊下も、休憩室も、外の坂道も…… 私がどこにも存在しない景色。それを見るとね、変な話だけど“安心”するの。」


灯の声は淡い笑みに似ていたが、完全に壊れていた。


「だって、そこにはもう“痛む私”がいないんだもん。」


凪は喉の奥から言葉を引っ張り出すように叫ぶ。


「灯、それは……!」


灯は凪の手をぎゅっと握りしめた。

その手は異様に冷たかった。

まるで、ずっと深い水の底に沈んでいたみたいに。


「でもね凪くん。“あなたがそこにいない未来”は……どうしても想像できなかった。」


凪は息を呑む。

灯の瞳は濡れたガラスのように揺れていた。


「だから私……怖いの。あなたがいる限り、私は“いなくなれない”。」


それは、苦しい告白だった。

灯は凪を見つめ、静かに問う。


「ねえ凪くん。 私、あなたに依存してる?」


――その問いの重さを、凪は理解していた。


灯は凪を必要としているようで、凪の存在が灯の苦しみを延命させている気もした。

関係の境界はすでに曖昧で、お互いがどちらを支えているのかも、どちらがどちらを沈めているのかも境界線を失っていた。


凪は、灯の手を強く握ったまま答えた。


「……それを言うなら、俺のほうが先だった。俺のほうが……おまえに依存してる。」


灯は目を見開いた。


「私が? どうして?」


凪は苦笑した。


「灯がいると……俺、ちゃんと息ができるんだよ。学校でも家でもできない呼吸が、ここではできる。灯だけが……俺の“最後の空気みたいなもの”なんだ。」


灯は唇を震わせた。


「そんなふうに言われたら……」


凪のほうへ体重が傾く。

灯はソファの背にもたれ、凪の肩に額を軽く預けた。


「……離れられなくなるじゃない。」


凪は灯の背にそっと手を添えた。

病棟の時計が、遠くでチクタクと時間を削っていく。


灯の呼吸は浅く、凪の呼吸は深く。

二つのリズムが、少しずつ近づいていった。

やがて灯が、小さな声で言う。


「……ねえ、凪くん。もし私がいなくなったら……どうする?」


凪は即答した。


「探す。」


灯の肩がびくりと震える。

凪は続けた。


「病棟のどこでも、街のどこでも、海でも山でも。灯がいなくなったら、俺は探す。見つかるまで探す。」


灯の目に涙が浮かんだ。


その涙は、凪から見ても理由の混ざった涙だった。

嬉しさと、痛みと、そしてどこか“解放”に似たものが混じっていた。


灯は泣きながら笑った。


「……じゃあ、いなくなれないね。困ったなあ。」


その言葉を最後に、灯は凪の肩に顔をうずめて泣き続けた。


その涙の意味を、凪はまだ知らなかった。


――この病棟で、灯が抱えている“本当の理由”。

――灯が白い部屋を怖れながら、どこかで求めている理由。

――そして、灯が凪に近づいた“最初の動機”。


すべてがこのあと、ゆっくりと“ひび割れのように”露わになっていく。


凪はまだ気づいていなかった。

この日、灯が言いかけて飲み込んだ言葉こそが


——物語の終わりを決定づける“最初の兆し”だったことに。

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