第八章:白い部屋の音のない鐘
灯と話した帰り道、凪は病院のエレベーターに乗り込んだ。
床に反射した蛍光灯の光が、薄く揺れながら彼の靴先を照らす。
その揺れ方は、まるで「ここから先は本音しか持ち込めない」と告げる境界線のようだった。
エレベーターが一階に向けて下るあいだ、凪は心臓の音を聞いていた。
ドク……ドク……音がひとつ鳴るたび、胸の奥の“白い部屋”がきしんでいく。
――灯は、どうしてあんなに静かなのだろう。
病棟にいる人々は、誰もが自分の中の“嵐”に名前をつけられずにいた。
泣き叫ぶ者もいれば、点滴台に寄りかかって眠るように沈黙する者もいる。
それなのに灯は、嵐を抱えたまま、静かに笑う術を知っている。
凪はそれを羨ましく思いながらも、どこか恐れていた。
静けさは、時に絶望の別名になることを、凪は知っていたから。
エレベーターの扉が開く。
外来フロアに広がる“日常”のざわめきが耳を満たした。
受付で会計番号を呼ばれる声、初診フォームを埋めるペン先の音、薬剤師が瓶を並べる小さな衝突音。
それら全部が、凪には遠くの街のざわめきのように聞こえた。
病院の出口へ向かう途中、凪は足を止めた。
観察室の前を通ったとき、閉じられた扉の向こうから“音のない鐘”のような感覚が胸に響いたからだ。
実際には何ひとつ聞こえていない。
でも、鼓動と一緒にその部屋の白が胸の内側まで染み込んでくる。
灯が言っていた。
「あの白さの中にいると、自分が“輪郭だけになれる”」
凪はその言葉を反芻した。
輪郭だけになるとは、どんな状態なのだろう。
自分でいる苦しさをいったん脇に置いて、名前でも立場でもなく“ただの形”になってしまうことなのか。
——そう考えたとき、ふと胸の奥が軽くなる感覚があった。
凪はゆっくりと手を伸ばし、観察室の扉に触れた。
冷たい金属が肌に吸いつく。
なぜ触れたのか、自分でもわからない。
ただ、その向こう側に灯の影が薄く残っているような気がして。
「……灯」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
けれど、言葉の温度だけが指先に残った。
扉から手を離した瞬間、廊下の奥で車椅子が軽く動く音がした。
看護師に押されていたのは、一瞬、灯に見えた。
淡い色のパーカー、細い肩、どこか遠い眼差し。
凪は反射的に歩み寄ろうとした。
だが違った。別の患者だった。
喉が少しだけ締まる。
灯は、今日も白い部屋のどこかで、輪郭だけになっていたのだろうか。
凪はゆっくりと息を吐き、病院を後にした。
外は夕方の気配だった。
ビルの影が地面に長く伸び、風が街路樹の葉をかすかに揺らしている。
凪はバッグの中の診察券を握りしめながら、歩き出した。
――灯と出会ってから、自分の生活の色は変わり始めている。
気づけば、学校の教室で見える“透明になりたい”という願望は、ほんの少しだけ薄くなっていた。
代わりに、胸の奥に新しく芽生えた色がある。
名付けるには早すぎて、でも確かにここにある色。
凪はその色を抱えながら、帰り道の夕暮れに溶けていった。
まるで、白と白の間に――薄い青色の線が一本、静かに引かれたように。




