第七章:灯の“空白”に触れる日
灯の入院理由を、凪が初めて“輪郭として”感じ取ったのは、雨の日だった。
面談を終えて廊下に出ると、消毒液の匂いに薄く雨の湿気が混じっていた。
照明が白く反射して、世界全体が光に濁されているようだった。
そのとき、観察室の前の長椅子に灯が座っていた。
膝の上の手をぎゅっと握りしめ、視線は足元に落ちている。
「灯?」
声をかけると、灯は驚いたように顔を上げた。
けれどその表情は、普段の落ち着きとは違っていた。
まるで――“何かを押し戻している途中”の顔。
「……凪くん、いたんだ」
灯の声は布の裏側から聞こえるみたいに薄く、こわばっていた。
凪は隣に腰を下ろそうとする。
すると灯が、反射的に凪の腕をつかんだ。
「そこ……座らないほうがいいよ」
「え?」
灯は小さく首を振った。
「変なジンクスだけどね。ここに座ると、みんな“中に入れられる”の。観察室って、患者からしたらちょっとだけ……祭壇みたいな場所だから」
その言い方は冗談のようでいて、冗談ではなかった。
凪は灯の手の強さに気づいた。
普段は触れられることを避ける灯が、今は逆に離さない。
「……大丈夫?」
凪の問いに、灯は少しだけ迷い、それから深く息を吐いた。
「今日ね、担当医に“空白の時間”の話をしたんだ」
「空白?」
灯は自分の胸元を押さえて言った。
「覚えてない時間があるの。でも“覚えてない”ってことだけは、はっきり覚えてるんだよね」
その言葉は、意味を理解する前に凪の背筋を冷たくした。
灯は続ける。
「気づいたらベッドにいて…… 私、泣いたあとみたいに目が腫れていて…… でも何に泣いたのか、誰と話したのか、何を考えてたのか……みんな消えてる」
凪は胸がざわついた。
その感覚は、灯が一言で暴いた“同じ嵐”の匂いに似ていた。
「怖く、ないの?」
灯は少し笑った。
「怖いよ。でも……“空白”って、ある意味では救いでもあるんだ。だって、いらない記憶を勝手に消してくれるから」
その言葉があまりにも静かだったので、凪は思わず息を呑んだ。
「凪くんは……空白って、怖い?」
凪は答えられなかった。
家の中の無音、学校での透明感、ふと意識が遠のくような“重い眠気”が押し寄せる瞬間――あれらは思えば、灯の言う“空白”の入り口なのかもしれなかった。
灯は、凪の沈黙を見て微笑んだ。
「ね。やっぱり、同類だね、私たち」
その言い方は、前より少しだけ深く、温かかった。
凪は言葉を飲み込みながら、灯の横顔を見た。
灯は病院の白さに溶け込むように、かすかに光をまとっていた。
その光は弱いのに、傷ついたときほど強く見える性質をしていた。




