第六章:白い廊下の温度
病院の白い廊下には、季節という概念がほとんど存在しなかった。
冷房と暖房が適度に混ざった“無臭の気温”だけが、時間を平らにしている。
ただ、凪には一つだけわかるものがあった。
灯がここにいるとき、廊下の温度は少しだけ下がる。
まるで灯の心の温度が、そのまま外気へと滲み出るように。
この日は、面談より少し早く病院へ着いた。
学校での数学の小テストは散々だったが、気分はそれほど沈んでいなかった。
灯に会える――その一点で、成績の話題は薄紙のように脳裏から剥がれ落ちた。
自動ドアを抜けた瞬間、冷たさが皮膚をなめる。
その触れ方は、灯の声に似ていた。
やさしくもなく、冷たすぎるわけでもなく、ただ“どこかへ引き戻す”触れ方だった。
受付を過ぎて、廊下を曲がり、面談室の前を通る。
観葉植物が一つ置かれた休憩スペースまで来たとき、窓際のソファに灯の姿があった。
灯は本を閉じ、こちらを見た。
「凪くん、今日は少し顔が軽いね」
「え、そう? 特にいいことは…」
「“悪くはない”って顔してる」
灯はやわらかく笑った。
その笑いは、どこか水の匂いがした。
静かで、でも沈みきらない湖面のような笑い。
凪は灯の横に座る。
距離は肩ひとつぶん。
灯の横に座ると、心の中のざわめきが静まり、代わりに少しだけ風が吹くような感覚が生まれる。
「最近、眠れてる?」と灯。
凪は肩をすくめた。
「……微妙。眠れたら眠れたで、夢のほうが疲れる」
「夢って、どんな?」
「知らない場所を走り回ってる。出口がないのに、ずっと探してる感じ」
灯は視線を落とし、指先でソファの端を撫でた。
それは、壊れかけた何かの存在を確かめるしぐさに似ていた。
「……私が病棟に入った理由、聞きたい?」
唐突だった。
しかし凪は、その言葉をずっと待っていた自分に気づく。
「……うん」
灯は膝の上で手を組む。
その手は、午前の曇り空のように淡い。
「私ね、学校に行けなくなったの。何もできなくなった日があって。朝、靴を履こうとしたら、足が前に出なかったの」
言葉は淡々としているのに、凪の胸の奥では何かがゆっくり軋んだ。
「それで家に戻って、お母さんに『学校行かない』って言ったらすごく静かな声で、『どうして?』って聞かれたの。理由なんて、ひとつも言えなかった」
灯は笑うでもなく、泣くでもなく、ただ事実を置くように続けた。
「理由が言えないほど疲れてたんだと思う。そのあと家でも過呼吸になって、救急車呼ばれて…… それで、この病棟に来たの」
凪はゆっくり息を吸う。
肺に入る空気が、重く鈍く響く。
灯は続ける。
「病棟ではね、みんなすごく優しいし、静かで、私はここで“止まる”ことができた。外にいたときは、ずっと走らされてるみたいだったから」
「…灯は、今も苦しい?」
灯は少しだけ首を傾けた。
その仕草は、壊れた天秤がバランスを取り直そうと揺れるようだった。
「苦しくない日はないよ。でも…凪くんと話してる間は、少し平気」
その言葉は重くもなく、軽くもなかった。
しかし、凪の胸の奥で小さな灯りのような感覚を生み出した。
灯はふっと顔をこちらに向ける。
「ねえ凪くん。 あなた、たぶん“ここ”側の人だよ」
「ここって……病棟?」
「ううん」灯は指先で窓ガラスをそっとなぞった。
「“白い部屋”のほう」
観察室。面談室のさらに奥にある、ひとりで過ごすための、何もない白い部屋。
凪は息を呑む。
灯は続けた。
「あなた、走り続けてるふりをしてるけど、本当は止まりたがってる。でも、止まり方を知らない。だから、いつか“白”に呼ばれる」
凪の喉が乾く。
灯は横目でこちらを見つめる。
「もし、呼ばれたら教えてね。白い部屋で会おう」
その言葉は、軽く微笑むような響きだった。
けれど、凪にはその一文が未来への予告のように聞こえた。
白い部屋で会おう。
灯は、まるで凪がそこに来ることを確信しているかのようだった。
そして凪自身もまた、その言葉を否定できない自分がいることに気づいてしまった。




