第五章:白い部屋の“音”
白い廊下を歩くとき、凪はいつも胸の奥がざわついた。
それは、静電気が皮膚の裏側を歩くような感覚だった。
灯は、そのざわつきを“音”と呼んだ。
「白い部屋ってね、ほんとはすごくうるさいの」
初めて灯がそう言ったのは、曇った雨の日の面会スペースだった。
凪は紙コップの温いお茶を持ちながら、その言葉の意味を探すように灯の横顔を見つめた。
「うるさいって……機械の音?」
灯はかぶりを振る。
「違うよ。もっと……内臓に近い音。天井や壁が、静かに震えてるみたいな、ささやく音」
「……ささやく?」
「うん。“ここにいなさい”って。“外へは戻らなくてもいい”って」
凪は眉を寄せた。
精神科の観察室は、ただの部屋だ。
壁が何かを言うはずなんてない。
けれど灯の顔は、冗談ではなかった。
淡々としているのに、どこか傾いた静けさがあった。
灯は続ける。
「白い部屋に入るとね、自分が薄くなる気がするの。輪郭だけになって…… 人間ってより、透明な標本になったみたいで」
「……それって、怖くないの?」
灯は少しだけ口角を上げた。
「怖いよ。でも、“安心”でもある。生きてるのが疲れた時、あそこは世界で一番やさしい」
凪はその言い回しに、胸がざわりと揺れた。
“やさしい”という言葉が、“危ない場所”を意味している気がしてならなかった。
灯の目の下には、うっすらと影があった。
眠れていないというより、夢の境界に押し返されたまま朝を迎えてしまった人の影。
「ねえ、凪くん」
灯がふいにこちらを向く。
「君もさ……あの音、聞いたことあるでしょ?」
凪の手がわずかに震えた。
聞いたことがある——そう言われれば、思いあたる。
学校で、何も聞こえないはずの教室で、ふと胸の奥がざわついた瞬間。
家で、誰もいないリビングに立ったとき、空気の芯だけが震えるような感覚があった。
“透明になってしまえ”
そんな言葉が、音もなく背中に触れた気がする夜もあった。
凪は小さく息をついた。
「……あれは、音じゃないよ」
灯は、ゆっくりと首をかしげる。
「じゃあ?」
凪は答える前に、喉がひりつくのを感じた。
「……あれは、“諦めたいときの体温”だと思う」
灯の目が、わずかに揺れた。
「体温……?」
「そう。“逃げたい”って体が言ってるとき、胸の奥で湧く熱みたいな。触れられないのに、確かに“ある”感じ」
灯はしばらく黙っていた。そして、ふっと微笑んだ。
「……やっぱり凪くん、同類だね」
その微笑みはどこか折れた光のようで、凪の胸にすうっと落ちてきた。
その日の帰り道、凪は気づいた。
灯の言う“白い部屋の音”は、灯だけのものではなく——
自分にも潜んでいる気配だった。
それは、ただの錯覚かもしれない。
けれど凪には、灯の言葉が自分の奥の裂け目をそっと触れたように思えた。
そして、このとき凪はまだ知らなかった。
灯が聞いていた“音”は実際に——病棟の誰ひとり気づかなかった、とある“出来事”の前兆だったことを。
その出来事が、やがて凪と灯の運命を、静かに、大きく、揺さぶっていく。
白い部屋の“音”は、ただの比喩ではなかったのだ。




