第三十三章:欠けている場所は、同じ形をしている
精神病棟は、時間の流れ方が違う。
朝も夜も区別はある。
食事の時間も、消灯の時間も、決まっている。
けれど――
“昨日の続き”という感覚だけが、ない。
灯は、ベッドに腰かけて、窓を見ていた。
鉄格子ではない。
転落防止用の、少し高いフェンス。
あの日の学校のものより、ずっと頑丈で、
ずっと「配慮」されている。
安心のための構造。
逃げないための設計。
それでも灯は、
無意識に高さを測ってしまう。
(……ここからは、落ちない)
その確認をするたびに、
胸の奥で、理由の分からないざらつきが残る。
灯は、思い出せていない。
フェンスに立った瞬間のこと。
身体が宙に浮いた感覚。
なぜ、そこに登ったのか。
断片はある。
冷たい金属の感触。
風の音。
そして――
「止められなかった」という、重さだけ。
何を止められなかったのかは、分からない。
医師は言う。
「記憶は、心が耐えられる速度で戻ります」
灯は頷く。
けれど、その言葉が
自分のためなのか、周囲の安心のためなのか、
分からないまま、頷く。
その日の午後、
個別面談の時間が終わったあと、
談話室の椅子に座っていると、
名前が呼ばれた。
「……灯さん、面会です」
面会。
その言葉に、心が一瞬、揺れる。
凪は、ここには来ない。
来られない。
そう思っていた。
扉が開く。
そして、
そこに立っていたのは――
凪だった。
一瞬、時間が止まる。
「……あ」
灯の口から、音が零れる。
名前ではない。
感情でもない。
存在の確認だけの音。
凪は、少し戸惑ったように立ち、
それから、ゆっくりと近づく。
「……久しぶり」
その言葉は、
“元気?”でも
“ごめん”でもなかった。
灯は、頷く。
「……うん」
その返事もまた、
意味を持たない。
二人は、向かい合って座る。
会いたかったわけでもない。
避けていたわけでもない。
ただ、
ここで会うことだけが、
自然だった。
凪は、しばらく黙ってから言う。
「……俺さ」
声が、少し掠れている。
「最近、記憶が……変なんだ」
灯の指先が、わずかに動く。
「変?」
「抜けてる、っていうか……
ちゃんと覚えてるはずのことが、
手応えだけ残ってる」
灯の胸が、静かに鳴る。
それは――
自分と、同じだ。
「思い出そうとすると、
頭じゃなくて、身体が止まる」
凪は、視線を落とす。
「……怖い、とかじゃない。
もっと、手前で」
灯は、言葉を探す。
そして、
自分の中にあった違和感を、
そっと差し出す。
「……私も」
凪が、顔を上げる。
「映像は、ないの。
でも……“割れたあと”の感じだけ、残ってる」
その瞬間、
二人の間に、確かな線が引かれる。
同じ場所が、
同じ形で、欠けている。
「……やっぱり」
凪は、息を吐く。
「俺たち、
同じところを、閉じてる」
灯は、はっきりと理解する。
凪が、
事故のあと、
自分を守るために、
記憶に蓋をしたこと。
そして、
自分が、
思い出さないことで、
世界を保ってきたこと。
それは、
どちらが正しかった、という話ではない。
ただ――
二人とも、
一人では耐えられなかった、というだけだ。
「……ねえ、凪」
灯は、静かに言う。
「思い出したらさ……
私たち、壊れると思う?」
凪は、少し考えてから、首を振る。
「……一気にだったら、壊れる」
そして、
はっきりと続ける。
「でも、
一緒なら……
多分、大丈夫だ」
灯の目が、揺れる。
それは希望ではない。
保証でもない。
ただの、選択肢だった。
それでも灯は、
その言葉を、胸に置く。
「……うん」
窓の外で、
夕方の光が、フェンスに影を落とす。
影は、地面に届かない。
落ちない影。
二人は、まだ何も思い出していない。
けれど――
欠けている場所が、
同じ形をしていると知った。
それだけで、
記憶は、もう動き始めていた。




