第三十二章:蓋は、守るために閉じられる
灯がフェンスから落ちた、と聞いたとき、
凪の中で何かが音を立てて閉じた。
それは衝撃でも、恐怖でもない。
遮断だった。
思考が止まる前に、
心が勝手に判断した。
——これ以上、思い出したら壊れる。
凪は、その瞬間から
「あの夜」を思い出さなくなる。
正確には、
思い出そうとしなくなる。
割れた音も、
倒れた身体も、
灯が前に出た理由も。
すべて、
存在しなかったもののように扱う。
それは逃避ではなかった。
生存だった。
凪は、普通に学校へ行き、
普通に友達と話し、
普通に笑った。
周囲から見れば、
“事故を乗り越えた兄”だった。
けれど、
感情だけが、少しずつ遅れていく。
嬉しいはずの場面で、
笑うまでに間がある。
悲しい話を聞いても、
胸が動かない。
代わりに、
理由の分からない疲労が残る。
眠れるのに、休まらない。
起きているのに、現実に触れていない。
——灯が、死にかけた。
その事実だけが、
蓋の外側で、
ずっと軋んでいた。
凪は、無意識に
「灯のことを考えない」ようになる。
考えれば、
蓋が浮く気がしたから。
その結果、
凪は自分の心を見失う。
怒りが出ない。
涙も出ない。
怖さも、はっきりしない。
ただ、
“自分がここにいる理由”だけが、
分からなくなる。
ある日、
授業中に息ができなくなった。
教室が狭くなる。
音が遠ざかる。
視界が、少しずつ白む。
倒れはしなかった。
叫びもしなかった。
ただ、
座ったまま、動けなくなった。
保健室で、
養護教諭が言った。
「……ちょっと、一度診てもらおうか」
凪は、その言葉に
抵抗しなかった。
抵抗する気力すら、
もう残っていなかった。
精神科の待合室は、
静かだった。
音がないのではない。
音が、意味を持たない。
テレビの音も、
話し声も、
すべてが背景になる。
凪は、
そこで名前を呼ばれるのを待っていた。
呼ばれて、立ち上がったとき、
隣の椅子が、視界に入る。
白い壁。
白い床。
白い服。
そして——
見覚えのある横顔。
灯だった。
少し痩せて、
少し小さくなって、
それでも確かに、灯だった。
一瞬、
現実感が剥がれる。
——ここに、いるはずがない。
でも、
灯も凪を見ている。
目が合う。
驚きは、ない。
喜びも、ない。
あるのは、
理解だった。
——ああ、ここまで来たんだ。
言葉は交わさない。
名前も呼ばない。
ただ、
同じ空間にいることだけが、
確認される。
凪は、その瞬間、
気づいてしまう。
蓋をしていたのは、
灯のためじゃない。
——自分が、
——灯のそばに立てなくなるのが、
——怖かっただけだ。
灯は、
まだすべてを思い出していない。
凪も、
まだ思い出せない。
けれど、
同じ場所に辿り着いた。
同じ速度で、
同じ夜に、
近づいてしまった。
診察室の扉が、開く。
「次の方、どうぞ」
灯が先に立ち上がる。
その背中は、
かつて凪の前に立った背中と、
重なって見えた。
凪は、
一歩遅れて立ち上がる。
——蓋は、もう役目を終えつつある。
守るために閉じたものは、
再び開かれる運命にある。
しかも今度は、
一人ではない。




