第三十一章:壊れる前の音は、たいてい静かだ
事故のあと、
灯は「普通」に戻ろうとしていた。
学校に行き、
食事をし、
凪の妹として、
必要な場所に、必要なだけ存在する。
それは努力ではなく、反射だった。
そうしていないと、
自分がどこに落ちるのか、分からなかったから。
凪は、少しずつ気づく。
灯が、音に反応しなくなっていくことに。
皿がぶつかる音。
ガラスの触れる音。
風鈴の、乾いた揺れ。
以前なら、
一瞬、肩が跳ねていた。
今は、跳ねない。
代わりに、
目が遅れて瞬く。
——聞こえてから、受け取るまでに、時間がかかっている。
まるで、
現実がワンクッション、
どこかを経由してから届いているみたいだった。
「灯?」
呼ぶと、
少し遅れて、こちらを見る。
「なに?」
声は、穏やかだ。
感情も、平坦だ。
それが、
凪をいちばん不安にさせた。
怒りも、悲しみも、
波打たない水面。
灯は、夜になると起きていた。
灯りをつけず、
ベッドの上で、
ただ座っている。
凪がトイレに起きると、
廊下の暗がりで、
人影に出会う。
「……眠れないの?」
そう聞くと、
灯は首を横に振る。
「眠れるよ」
否定ではない。
報告だった。
眠れるけど、
眠っていない。
その違いを、
灯自身が説明できない。
凪は、それ以上、踏み込まない。
踏み込めば、
あの夜に戻る気がしたから。
灯の中で、
記憶は整理されていなかった。
怒鳴り声の意味も、
倒れた身体の重さも、
自分が前に出た理由も。
ただ、
「割れたあと、世界が壊れた」
という感触だけが、
残り続けていた。
理由のない罪悪感。
理由のない恐怖。
理由のない自己否定。
——なのに、理由が分からない。
それが、
灯を少しずつ追い詰める。
ある日、
灯は学校のフェンスを見ていた。
高いわけでも、
低いわけでもない。
ただ、
向こう側が見える。
そのとき灯の頭に浮かんだのは、
「死にたい」ではなかった。
——ここから、落ちたら。
それだけだった。
思考でも、願望でもない。
想像ですらない。
ただの、
可能性。
可能性としての「落下」。
その可能性が、
異様に静かで、
異様に優しく見えた。
(……行けるかも)
行ける、という言葉に、
目的はなかった。
逃げでも、救いでもない。
ただ、
終わる、という感触だけが、
そこにあった。
灯は、
自分が危険な場所に立っていることを、
理解していなかった。
凪が気づいたのは、
もっとあとだ。
灯が、
病院の白い天井を見上げているとき。
無事だった。
生きていた。
それだけが、
確かな事実だった。
「……覚えてる?」
凪が聞くと、
灯は、少し考えてから首を振る。
「……途中まで」
途中。
その言葉に、
凪の胸が締めつけられる。
灯もまた、
凪と同じ場所にいる。
思い出せないのではない。
思い出しきれない場所に。
医師は、
穏やかな声で言う。
「心が、長いあいだ無理をしてきたんだと思います」
その言葉は、
事故よりも、
ずっと重かった。
灯は、
精神病棟に入る。
守るための場所。
閉じるための場所。
フェンスの向こうに行かないように、
世界を、内側に畳む場所。
灯は、
そこでも、泣かなかった。
ただ、
時々、同じ夢を見る。
割れる前の音。
止められなかった動き。
誰かの背中。
凪も、
同じ夢を見る。
二人は、
別々の場所で、
同じ夜を、
少しずつ思い出していく。
まだ、核心には触れない。
けれど——
記憶はもう、
眠ったふりをやめていた。




