第二十九章:判断は、いつも子どもが目を逸らしたあとで下される
最初に動いたのは、灯だった。
それは、勇気でも決断でもない。
身体が、勝手にそうした。
床に散らばる破片を避けることもなく、
灯は一歩、前に出る。
凪は、その背中を見る。
小さくて、細くて、
それでも、逃げなかった背中。
「……っ」
灯の口から、短い音が漏れる。
腕。
血が、止まらない。
コップの破片が、
皮膚を浅く、だが確実に裂いていた。
それでも灯は、
自分の腕より先に、床に倒れた身体を見る。
「……お母さん」
その呼び方は、
さっきまでの責める声が嘘だったかのように、
ひどく静かだった。
返事はない。
灯は、膝をつく。
揺することはしない。
声を荒げることもしない。
——もう、知っていた。
身体が、
「揺すってはいけない」と理解してしまっていた。
凪は、そこから目を逸らす。
逸らしたのは、
床に倒れた大人の顔ではない。
灯の表情だ。
その顔を見てしまったら、
自分の立っている場所が、
一気に崩れる気がした。
凪の視界の端で、
灯が何かを口にしている。
聞こえない。
いや、
聞こうとしていない。
そのあいだに、
時間が、外に漏れる。
誰かが通報したのか。
近所の人が気づいたのか。
それは、凪の記憶には残らない。
残るのは、
音が戻ってくる感覚だけだ。
サイレン。
遠くから、
だが、確実に近づいてくる音。
その音を聞いた瞬間、
凪の中で、ひとつの理解が確定する。
——もう、子どもの時間じゃない。
玄関が開く音。
靴音。
知らない声。
「大丈夫ですか」
「……怪我してるね」
灯の腕が、
やさしく、しかし迷いなく押さえられる。
白い布。
強い匂い。
それらはすべて、
「事故」の側の道具だった。
「割れたコップで?」
その問いに、
灯は、はっきり頷く。
凪は、
その頷きを、横から見ている。
嘘ではない。
だが、真実でもない。
事故として切り取れる部分だけが、
丁寧に、選ばれていく。
床に倒れた身体について、
大人たちは、短い言葉を交わす。
専門用語。
確認。
時間。
凪には、
その意味が分からない。
分からないが、
分かってしまう。
——立ち上がらない、という判断。
誰かが、
灯を連れて、部屋の外に出ようとする。
そのとき、
凪は、初めて灯を見る。
灯の顔は、
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、
一瞬だけ、凪を見る。
その目には、
頼る色も、責める色もなかった。
あるのは、
預ける色だけ。
——お願い。
言葉にはならない。
けれど、
凪の胸に、はっきり届く。
灯は、
ここに残れない。
凪は、
ここに残される。
その分断が、
一瞬で、完成する。
灯が連れていかれる。
血のついた布が、
白い廊下に吸い込まれていく。
扉が閉まる。
その音は、
割れたコップより、
はるかに大きかった。
残された部屋で、
凪は立ち尽くす。
床の破片は、
もう片づけられ始めている。
倒れていた身体は、
白い布で覆われている。
腕の角度は、
もう見えない。
——見えなくなった、というだけだ。
なかったことには、ならない。
凪は、そこで初めて思う。
(……俺は)
(……ここから先を、知らない)
知らないまま、
時間が進む。
知らないまま、
判断が下される。
知らないまま、
灯は「妹」になる。
そして——
知らないまま、
凪は守られる。
その代償が、
どれほど大きかったのかを、
このときの凪は、まだ知らない。




