第二十八章:倒れたものは、もう時間を持たなかった
割れる音は、思ったより軽かった。
高くもなく、低くもなく、
日常の中で何度も聞いたことのある音。
——コップが落ちただけ。
そう思わせるための音だった。
透明なものが砕けるとき特有の、
乾いた、短い破裂。
灯の身体が、凪の前で揺れる。
庇う、というより
割れた世界の中に入り込むような動き。
次の瞬間、
床に散ったのは破片だけではなかった。
怒鳴り声は、止まった。
その代わり、
空気が、重力を失う。
大人の身体が、
ほんのわずか、後ろに傾く。
その傾きは、
よろけではなかった。
——踏み外し。
その言葉が、
凪の中に遅れて浮かぶ。
足が、
床にあるはずの場所を、
見失った。
倒れる、というより
落ちていく。
凪の視界が、
意味を持たない速さで動く。
天井。
壁。
棚。
また天井。
そして——
音。
鈍く、低く、
身体の内側まで響く音。
それは、
家具が倒れる音ではなかった。
何かが、
戻らない形でぶつかった音。
凪の思考が、
そこで止まる。
理解しようとする前に、
視覚が先に答えを出す。
床に倒れた身体。
人の形をしているのに、
どこか、人のものではない。
腕。
関節。
角度。
——おかしい。
人の腕は、
そんなふうに曲がらない。
凪の喉が、
音にならない悲鳴を作る。
灯が、
息を呑む音がする。
その音だけが、
まだ“生きている音”だった。
ガラスの破片が、
床に散らばっている。
光を反射して、
やけに綺麗だった。
その中に、
赤が混じる。
それが何か、
凪は考えない。
考えないことで、
立っていられた。
時間が、
ここで一度、切れる。
秒針も、
呼吸も、
意味を失う。
音が、消える。
完全な無音ではない。
冷蔵庫のモーター音はしている。
外の車の音も、かすかにある。
それなのに、
この部屋の音だけが、消えた。
誰も、動かない。
灯は、
自分の腕を押さえている。
凪は、
一歩も動けない。
床に倒れた大人は、
目を閉じている。
怒りも、
責める声も、
もう、どこにもない。
そこにあるのは、
形を失った沈黙だけ。
凪は、その沈黙を見てしまう。
——これは、
——大人が立ち上がらない沈黙だ。
その理解が、
胸の奥で、静かに確定する。
誰かが、
何かを言わなければならない。
誰かが、
動かなければならない。
でも——
凪は、子どもだった。
灯も、子どもだった。
そして、
倒れているのは、
世界の中心だった人だった。
その事実だけが、
重く、重く、
床に沈んでいく。
割れたコップの破片は、
もう、音を立てない。
倒れた身体も、
動かない。
時間だけが、
どこにも行けず、
この部屋に溜まり始めていた。




