第二十七章:責める声は、理由を必要としなくなる
責める声というものは、
最初は必ず、理由を伴っている。
「遅い」
「できていない」
「約束したでしょう」
言葉は、行動に紐づいていて、
間違えれば、修正できる余地がある。
けれど、
ある境目を越えると、
責める声は理由を失う。
理由を失った声は、
人に向かわない。
存在そのものに、降りかかる。
凪の記憶の中のあの家には、
そういう声が、あった。
怒鳴ってはいなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、
同じ調子で、
同じ温度で、
同じ言葉を、繰り返していた。
「どうして、そうなの」
問いかけの形をしているのに、
答えは、最初から用意されていない。
灯は、その前に立っていた。
立って、
俯いて、
肩をすくめて。
否定も、反論も、説明も、
すべてが“刺激”になると知っている人間の姿勢だった。
凪は、その横にいた。
横、というより、
少し後ろ。
一歩、
灯の背中に隠れる位置。
(……おかしいな)
当時の凪は、そう思っただけだった。
遊びに来ただけの家で、
なぜこんなに、空気が重いのか。
なぜ、
笑ってはいけない気がするのか。
なぜ、
灯が、自分より大人に見えるのか。
答えは、
すべて灯が引き受けていた。
責める声は、
灯に向けられていた。
凪は、
“客”だったから。
あるいは——
まだ壊れていない人間だったから。
灯の母は、
落ち着いているように見えた。
少なくとも、
外側は。
だが、その声は、
ひとつの場所に留まらなかった。
話題が、
理由が、
時間軸が、
次々と飛ぶ。
「さっきも」
「いつも」
「前から」
現在と過去が混ざり合い、
灯は、どの灯を責められているのか分からなくなる。
それでも、灯は謝っていた。
「ごめんなさい」
「次は気をつける」
「ちゃんとする」
その言葉たちは、
意味を伝えるためのものではない。
場を沈めるための言葉だった。
凪は、そこで初めて、
違和感を“違和感として”自覚する。
——これ、俺がいちゃいけないやつだ。
そう思った。
帰りたい、ではない。
逃げたい、でもない。
ただ、
ここに立っていることで、
何かを歪ませている気がした。
その瞬間、
凪は、一歩、前に出る。
灯の横に。
「……あの」
声は、震えていた。
「灯、悪くないと思います」
その言葉は、
正義でも、勇気でもなかった。
ただの、
混乱した誠実だった。
だが——
その一言で、
空気が、決定的に変わる。
責める声が、
初めて、凪を見る。
灯の母の目が、
凪を“状況”として認識する。
「……何が分かるの」
その声は、
灯に向けられていたものと、
同じ温度だった。
だが、
向きだけが、変わった。
凪の喉が、詰まる。
灯が、
一瞬で理解する。
——あ、これ、まずい。
理解した瞬間、
灯は動く。
言葉よりも先に。
考えるよりも先に。
凪の前に、
身体が出る。
その動きは、
日常の延長だった。
何度も、
何度も、
同じことをしてきた人間の動き。
そして——
何かが、持ち上げられる。
ガラス。
透明で、
中身のない、
日常の道具。
その重さが、
空気を切る予感。
凪の視界が、
一瞬、歪む。
時間が、
引き伸ばされる。
灯の肩。
灯の腕。
自分の目の前。
——やめて。
その言葉は、
音にならなかった。
次の瞬間まで、
記憶は、そこまでだ。
音も、
衝撃も、
結果も。
ただ、
倒れる直前の重力だけが、
異様に、はっきりと残っている。
床が、
近づいてくる感覚。
大人の身体が、
均衡を失う気配。
そして、
灯の腕に走る、
焼けるような感触。
そこから先は、
まだ、扉の向こうだ。
凪の心は、
今も、その取っ手に手をかけたまま、
回すことができずにいる。




