第二十六章:止められなかった瞬間は、いつも途中で始まる
その日のことを思い出そうとすると、
凪の記憶は、決まって途中から始まる。
玄関に入った瞬間でもない。
靴を脱いだ感触でもない。
「お邪魔します」と言った声ですらない。
もっと、曖昧で、もっと不穏なところ。
——空気が、変だった。
それが、最初の違和感だった。
中庭で灯と別れたあと、
凪は一人、帰りの電車に揺られながら、
その“変さ”を反芻していた。
楽しいはずの日だった。
灯の家に遊びに行く。
ゲームをする。
お菓子を食べる。
それだけの予定。
なのに、
記憶の中のその家は、
いつも少しだけ、音が足りない。
テレビはついていたはずなのに、
笑い声が思い出せない。
冷蔵庫を開けた音はあるのに、
会話がない。
凪は、目を閉じる。
すると、
映像ではなく、圧がくる。
胸の内側から、
じわじわと押されるような感覚。
——怒っていた。
それは、誰かの怒りだった。
けれど、
怒鳴り声はなかった。
物を投げる音もない。
ただ、
責める“温度”だけが、
部屋に満ちていた。
「……灯」
凪は、無意識にその名前を呼ぶ。
灯は、
あの日、よく動いていた。
お茶を運び、
話題を変え、
笑顔を貼りつけて。
まるで、
空気が割れないように、
両手で支えているみたいに。
凪は、そのとき思ったのだ。
——すごいな。
——気が利くな。
——大人だな。
そのすべてが、
今になって、別の言葉に置き換わる。
——必死だった。
灯の母の声が、
ふと、蘇る。
高くも、低くもない。
ただ、鋭い。
刃物の背で、
何度も同じ場所をなぞるような声。
「どうして、そんなことするの」
責めているのに、
理由は曖昧。
理由が曖昧だからこそ、
終わりがない。
灯は、
何かを謝っていた。
何についてかは、分からない。
謝罪が、
具体性を失ったあとに残るもの。
それは、
人格そのものへの否定だった。
凪の喉が、ひくりと鳴る。
(……あのとき)
(俺は、何してた)
思い出そうとすると、
記憶が、そこで濁る。
凪は、
ただ立っていた。
状況を理解しようとして、
理解できないまま、
時間だけが過ぎていく。
大人の世界に、
子どもが放り込まれたときの、
あの宙ぶらりん。
そのとき——
何かが、持ち上げられた。
それが何だったのか、
凪はまだはっきり言えない。
ただ、
ガラス特有の、
光を含んだ重さ。
灯の体が、
一瞬、前に出る。
凪の前に。
庇う、という言葉を
知る前の動き。
凪の心臓が、
嫌な音を立てる。
——割れる。
その予感だけが、
異様なほど鮮明だった。
そして、
そこで記憶は、また途切れる。
次に思い出すのは、
床。
白ではない。
けれど、暗くもない。
何かが散らばっている。
小さく、
鋭く、
二度と元には戻らない形。
灯の声が、
遠くで聞こえた気がする。
でも、
それが悲鳴だったのか、
自分の耳鳴りだったのか、
凪には判別できない。
凪は、電車の中で目を開ける。
窓に映る自分の顔は、
青ざめていた。
——俺は、止められなかった。
いや、
止めようとすら、していなかった。
その事実が、
胸に、重く沈む。
灯は、
あの瞬間も、
前に出た。
凪の前に。
割れるものの前に。
そして——
それ以上のことは、
まだ、思い出せない。
思い出せないのではない。
思い出す手前で、
心がブレーキをかけている。
壊れると分かっている扉を、
無理に開けないように。
凪は、ゆっくり息を吐く。
真実は、
まだ形を持たない。
ただ、確実に言えることがある。
——あの夜は、
——事故の瞬間から始まったんじゃない。
——そのずっと前から、
——止められない流れが、
——できあがっていた。
そして、
灯はその流れの中で、
一人、立ち続けていた。




