第二十五章:同じ問いは、同じ場所からは生まれない
灯と向き合う、という想像は、
凪の中で何度も反芻されてきた。
言うべき言葉。
聞くべき言葉。
言ってはいけない言葉。
それらが、頭の中で整列しては、すぐに崩れる。
実際に灯の姿を目にした瞬間、
そのすべてが、意味を失った。
灯は、病院の中庭にいた。
ベンチに座り、膝の上で手を組み、
何かを待つでもなく、何かを拒むでもなく。
凪は、その後ろ姿を見て思う。
——変わっていない。
少なくとも、外側は。
けれど、それは
長い時間をかけて凍った湖の表面みたいなものだと、
今の凪には分かってしまう。
踏み出せば、割れる。
踏み出さなければ、何も始まらない。
凪は、ゆっくりと歩み寄る。
「……灯」
名前を呼ぶと、
灯は一拍遅れて振り返った。
驚いた顔はしない。
だが、安堵とも違う。
それは、
“来ると分かっていた人を見る目”だった。
「……来たんだ」
灯の声は、柔らかい。
だが、その柔らかさは、
触れるためのものではなく、
衝撃を逃がすためのものに見えた。
凪は、灯の前に立つ。
距離は、一歩分。
近いのに、
これまでで一番遠い。
「……話、していい?」
灯は、少し考えてから頷く。
「うん」
その一言に、
凪の胸の奥で、何かが外れる。
座ると、
二人のあいだに、沈黙が落ちる。
沈黙は、気まずさではなかった。
むしろ、
どちらが先に“触れるか”を探る時間だった。
凪は、意を決して口を開く。
「……俺さ」
言葉が、喉に引っかかる。
「……ずっと、何も知らなかった」
灯は、視線を落とす。
否定しない。
肯定もしない。
それが、答えだった。
「……知らないまま、
普通だと思ってた」
凪の声が、少しだけ震える。
「夜も、家も、
誰もいない時間も」
灯の指が、わずかに動く。
それは、
過去に触れられた人間の反応だった。
「……凪は」
灯が、静かに言う。
「眠るの、上手だったよ」
その言葉に、
凪の胸が、きゅっと縮む。
褒め言葉の形をした、
決定的な距離。
「……起きないし、
怖がらないし」
灯は、淡々と続ける。
「だから……」
そこで、言葉が止まる。
凪は、続きを促さない。
今は、
言葉が出てくるのを待つべきだと、
本能的に分かっていた。
「……だから、
起こさないほうがいいって、
思われてた」
“思われてた”。
その受動の言い方が、
凪の心を刺す。
「……誰に?」
灯は、少しだけ笑う。
それは、
笑顔ではなかった。
「みんなに、かな」
その“みんな”の中に、
母が含まれていることを、
凪は聞かなくても分かる。
風が、二人のあいだを通り抜ける。
中庭の木が、
かすかに揺れる。
「……灯」
凪は、拳を握る。
「妹でいるの、
嫌じゃなかった?」
その問いは、
凪なりの、最大限の誠実だった。
灯は、すぐには答えない。
代わりに、
自分の腕を見る。
肘から先。
何もないように見える場所。
けれど、
凪には分かる。
——そこに、“何かあった”。
「……嫌、っていうか」
灯は、ゆっくり言う。
「それ以外、
思いつかなかった」
その言葉は、
選択の不在を、
静かに語っていた。
「家族、って言葉があると、
説明しなくてよかったから」
説明しなくていい。
それは、
守られる言葉であると同時に、
閉じ込める言葉でもある。
凪の中で、
怒りとは違う熱が生まれる。
後悔。
あるいは、
遅すぎた自覚。
「……ごめん」
その言葉が、
凪の口から、初めて落ちた。
灯は、目を見開く。
「……凪が謝ることじゃ」
「ある」
凪は、遮る。
「……俺、
何も知らないまま、
守られてる側でいた」
声が、少し掠れる。
「それで、
何も疑わなかった」
灯は、何も言わない。
ただ、
その沈黙が、拒絶ではないことだけは分かる。
しばらくして、
灯がぽつりと呟く。
「……割れたんだ」
凪の心臓が、強く打つ。
「……何が?」
灯は、空を見る。
雲の動きが、
やけに遅い。
「コップ」
その単語が、
凪の中で、嫌な音を立てる。
ガラスが擦れるような、
記憶の予兆。
「……たくさん、
小さくなって」
灯は、そこで言葉を切る。
「……それ以上は、
まだ、だめ」
その言い方は、
かつて誰かが凪に向けたものと、
よく似ていた。
——まだ、だめ。
凪は、頷く。
「……うん」
今は、
それでいい。
大事なのは、
同じ方向を見始めたことだ。
灯は、凪を見る。
その目は、
妹のものではなかった。
同じ夜を、
違う場所から見ていた人間の目だった。




