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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第二十四章:問いは、怒りよりも静かに人を傷つける

母と向き合うという行為は、

凪にとって、長いあいだ「予定表に存在しない予定」だった。


約束を取り付けたわけでもない。

覚悟を決めたわけでもない。


ただ、同じ家にいる以上、

いつか必ず鉢合わせる時間が来ることだけは、

ずっと分かっていた。


それが、今日だった。


母は、キッチンに立っていた。

エプロンをつけ、包丁を持ち、

いつも通りの背中をしている。


その背中は、

「話しかけるな」とも

「話しかけていい」とも言わなかった。


凪は、その背中を見て思う。


——やっぱり、母は背中の人だ。


顔を見せる前に、

役割だけを先に置く人。


凪は、喉の奥に溜まったものを、

一度、飲み込んでから口を開く。


「……母さん」


その呼び方が、

今日はやけに硬かった。


母は振り返る。

驚いた様子はない。

だが、ほんの一瞬、

包丁を置く手が遅れた。


「どうしたの?」


いつもの声。

温度も、速度も、変わらない。


それが、凪の胸を刺す。


(……ずっと、こうだった)


凪は、椅子を引いて座る。

テーブル越しに、母を見る。


改めて見る母の顔は、

知らない人ではない。

だが、理解している人でもなかった。


凪は、言葉を探す。


怒りのままなら、

もっと簡単だった。


責めればいい。

詰めればいい。

問い詰めて、答えを引きずり出せばいい。


けれど今、

凪の中にあるのは、

怒りよりも、重たいものだった。


「……灯のこと」


その名前を出した瞬間、

空気が一段、低くなる。


母は、黙ったまま頷いた。

否定もしない。

驚きもしない。


それが、凪には答えに見えた。


「……母さんは」


凪は、言葉を慎重に並べる。

壊れやすい皿を扱うみたいに。


「いつから、灯を……家族だって、思ってた?」


母は、少し考える。


その「考える」は、

記憶を探す動作ではなかった。


答えの形を、

凪に合わせて削る時間だった。


「……最初からよ」


その一言は、

あまりにも軽く、

あまりにも重かった。


凪の胸の中で、

何かが、音を立てずに崩れる。


(……最初から)


最初から、家族。

最初から、守る対象。

最初から——凪の知らない場所で。


「……じゃあ」


凪は、視線を落とす。


テーブルの木目が、

川の流れみたいに歪んで見える。


「……なんで、俺には言わなかった」


その問いは、

怒鳴り声にならなかった。


むしろ、

静かすぎて、

自分の耳にすら届いていない気がした。


母は、少しだけ目を伏せる。


その仕草は、

謝罪ではない。

後悔でもない。


——選択だ。


「凪には……」


母は、言葉を切る。


それは、

“続きがある切り方”だった。


「凪には、普通の時間を過ごしてほしかった」


普通。


その言葉が、

凪の中で、

異物みたいに転がる。


「……普通って、なに」


凪の声は、

自分でも驚くほど静かだった。


怒りは、もう燃えていない。

代わりに、

問いが、じわじわと熱を持っている。


母は、答えない。


代わりに、

キッチンの流しを見る。


水滴が、一つ、落ちる。


ぽつり。


その音が、

凪には、やけに大きく聞こえた。


「……灯はね」


母は、やっと口を開く。


「とても、静かな子だった」


その言葉に、

凪の胸が、ひくりと揺れる。


「何も言わなくて、

何も欲しがらなくて、

でも——ちゃんと、周りを見てた」


母は、凪を見ない。


凪の代わりに、

過去を見ている。


「凪が眠っているあいだも、

凪が笑っているときも、

あの子は、いつも一歩引いたところにいた」


その“一歩”が、

どれだけ遠かったのかを、

母は言わない。


言わなくても、

凪には分かってしまう。


「……妹ってことに、したのは」


凪は、続ける。


母の言葉を、

途中で引き取るみたいに。


「……楽だったから?」


母は、初めて凪を見る。


その目には、

疲労があった。

逃げ場を失った人の目だ。


「……守るためよ」


その言葉は、

嘘ではなかった。


だからこそ、

残酷だった。


凪は、椅子の背に、深くもたれる。


天井が、遠い。


——守る。


その言葉が、

何度も反芻される。


(……誰を)


(……何から)


凪は、ようやく分かる。


母は、凪を守った。

灯を守った。


けれど——

二人のあいだは、守らなかった。


あるいは、

守れなかった。


沈黙が、テーブルの上に広がる。


その沈黙は、

責めるためのものではない。


もう戻れない場所を、

互いに確認するための時間だった。


凪は、立ち上がる。


怒りは、もうない。


代わりに、

重たい問いだけが、

胸の奥に残っている。


「……俺」


凪は、背中を向けたまま言う。


「灯に、聞く」


母は、何も言わない。


止めない。

肯定もしない。


それが、

この人なりの答えだった。


凪は、部屋を出る。


廊下は、相変わらず白い。


けれど、もう、

逃げ場のない白ではなかった。


それは、

これから、言葉が置かれる余白だった。

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