第二十三章:怒りは、守られていた場所から生まれる
朝は、何事もなかった顔でやって来た。
それが、凪にはひどく不誠実に思えた。
カーテンの隙間から差し込む光は、
昨日と同じ角度で、同じ床を照らしている。
なのに、世界の重心だけが、少しずれていた。
凪は、ベッドから起き上がり、しばらくその場に座っていた。
身体は動く。
だが、心はまだ、夜の底に沈んでいる。
——約束。
昨夜、声を持たなかったその言葉が、
今朝は、喉の奥でざらついていた。
凪は、洗面所で顔を洗う。
冷たい水が頬を打つたび、
眠っていた感情が、皮膚の下で目を覚ます。
鏡に映る自分の顔は、
いつもより、少しだけ大人びて見えた。
それは成長ではなく、
知ってしまった人間の顔だった。
歯を磨きながら、凪は思う。
——母は、どんな顔で灯と話していたんだろう。
優しい顔だったのか。
困った顔だったのか。
それとも——決めてしまった人の顔だったのか。
凪の胸に、じわりと熱が広がる。
それは、悲しみとは違う。
恐怖とも違う。
もっと、重くて、ざらついたもの。
凪は、タオルで顔を拭きながら、
ふと、ある言葉を思い出す。
『凪には……まだ、重たいかもしれないけど』
母の声。
あの言い方は、
“いつか話す”ではなかった。
“もう決まっている”人の声だった。
凪は、リビングに戻り、テーブルに手をつく。
昨夜見つけた、あの小さな傷。
今朝見ても、やはりそこにある。
消されなかった線。
消せなかった線。
その線を見つめていると、
不意に、胸の奥で何かが弾けた。
——ふざけるな。
その感情は、言葉になる前に、
身体を通って出てきた。
拳が、無意識に握られる。
(……勝手に)
(勝手に、決めて)
(勝手に、守ったつもりで)
凪は、はっとする。
自分の中に、
こんな感情があったことに。
怒り。
それは、誰かを傷つけたい衝動ではなかった。
責めたい、というより——
奪われた、という感覚だった。
凪は、ようやく分かる。
——俺は、何も知らされていなかったんじゃない。
——“選ばせてもらえなかった”んだ。
灯が、妹になることを。
母が、家族を増やすことを。
夜の見張り役を、灯に任せることを。
すべてが、
凪の眠っているあいだに決まっていた。
凪は、椅子に座り、背もたれに体を預ける。
天井が、少し近く感じる。
(……灯は)
(それで、何を思ったんだ)
怒りの矛先が、
ゆっくりと、形を変える。
母ではない。
灯でもない。
——状況だ。
選択肢がないまま、
「優しさ」だけが置かれた場所。
凪は、強く目を閉じる。
すると、
はっきりした声ではない、
断片だけが浮かぶ。
『凪くんは、優しいから』
『あなたが、守ってあげて』
『妹ってことに、しておこうか』
誰の声か、分からない。
だが、そのどれもが、
灯を一人にする音だった。
凪の胸が、ぎゅっと潰れる。
——灯は、選んだんじゃない。
——選んだ“つもり”に、させられただけだ。
その理解は、
刃ではなく、
鈍器のように効いた。
遅れて、確実に。
凪は、立ち上がる。
足元が、少しふらつく。
それは、怒りが身体に慣れていない証拠だった。
スマートフォンを手に取る。
灯の名前が、連絡先にある。
指が、止まる。
(……今じゃない)
今、話せば、
優しさより先に、
怒りが出てしまう。
それは、灯に向けるものじゃない。
凪は、スマートフォンを伏せる。
深く息を吸い、
吐く。
怒りは、まだ未完成だ。
方向も、言葉も、定まっていない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
——俺は、もう眠らない。
少なくとも、
誰かが代わりに立っている夜には。
凪は、窓の外を見る。
朝の光は、相変わらず無垢だ。
それが、今は少しだけ、
信用できなかった。




