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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第二十一章:守られていた時間は、いつも音を立てない

夜は、家の中を均等に満たさなかった。

リビングは広く、凪の部屋は狭い。

同じ屋根の下なのに、空気の密度が違う。


凪は、電気を点けずにソファへ腰を下ろした。

暗闇に目が慣れるまでの時間が、今日はやけに長い。


——ここに、誰かがいた。


そう思った瞬間、胸の奥が、かすかに鳴った。

金属が擦れるような、嫌な音ではない。

古い木造の家が、夜風に応えるときの、あの軋みだ。


凪は目を閉じる。


すると、音ではなく時間が浮かび上がる。


時計の針が進む音。

台所で水を流す音。

自分が眠っているあいだに、誰かが起きている気配。


——俺は、眠っていた。


その事実が、急に重くなる。


眠るという行為が、

ただの休息ではなく、

誰かに預ける時間だったことに気づいてしまったからだ。


凪は、ゆっくりと視線を動かす。


ソファの横。

カーテンの裾。

テレビ台の影。


どこにも痕跡はない。

なのに、どこも“通られている”。


まるで、

自分が知らないあいだに、

家が誰かの動線を覚えてしまったみたいだった。


凪は、喉の奥で息を詰まらせる。


(……灯は)


灯は、

この家で、

どんな夜を過ごしていたんだ。


自分が部屋で眠り、

世界を一時的に手放しているあいだ、

灯は、どこにいた。


凪は、キッチンへ向かう。


冷蔵庫の前で、足が止まった。


扉を開けなくても分かる。

中身は、きっと同じだ。

自分が知っているものしか、入っていない。


なのに——

“誰かのために用意された余白”だけが、残っている。


それは、

冷蔵庫の奥の、

使われていない棚の一段分。


凪は、思わず笑いそうになる。


(……馬鹿だな)


物がなければ、なかったことになると、

本気で思っていた自分が、可笑しかった。


人は、

いなくなる前より、

いなくなった後のほうが、

強く存在する。


灯も、きっとそうだった。


凪は、テーブルに手をついた。


そのとき、

ふと、指先に違和感が走る。


木の表面に、

小さな、ほとんど消えかけた傷。


爪で引っかいたような、

意味を持たない線。


——いや。


意味がないからこそ、

消されなかった線だ。


凪の胸が、ゆっくり締まる。


(……これ)


(俺が、知らないあいだに……)


その瞬間、

脳裏に、言葉ではない感情が落ちてくる。


怖い。

でも、懐かしい。


拒みたい。

でも、遠ざけられない。


それは、

“守られる側”が、

“守る側”の気配に触れたときの、

独特の感覚だった。


凪は、ようやく理解し始める。


——灯は、

——ここで、

——「妹」になる前から、

——家族だった。


ただし、

名前のないまま。


凪は、椅子に座り、

背もたれに体を預ける。


天井が、静かに視界に入る。


白い。

けれど、

もう、何も書いていないとは思えない。


そこには、

自分が読まなかった文章が、

びっしりと並んでいる気がした。


——母は、

——灯に、

——何をさせなかったんだろう。


——灯は、

——何を、

——させてもらえなかったんだろう。


問いは、

答えを呼ばない。


ただ、

凪の中で、

“妹”という言葉の重さを、

一段階、深くする。


凪は、目を閉じた。


眠りは、すぐには来ない。


それでも、

以前のような不安はなかった。


今はただ、

静かな夜の底で、

自分が守られていた事実だけが、

呼吸のたびに、ゆっくりと沈んでいく。


それは、

思い出すには、まだ早い。


けれど、

忘れていいものでは、もうなかった。

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