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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第二十章:母は、いつも一段あとから現れる

その日の帰り道、凪は空を見なかった。

見上げれば何かを期待してしまいそうで、

期待すること自体が、いまは危うかった。


病院の自動ドアが閉まる音が、

背中で「外」と「内」を分断する。


夜風は冷たく、

だがそれは、凪が感じてきたどんな冷たさとも違った。

血の通わない冷えではなく、

“思い出し始めた身体”に触れる空気だった。


駅へ向かう道は、

何度も通ったはずなのに、

今日は妙に長く感じられた。


歩きながら、

凪の中で、ある存在が浮上してくる。


——母。


それは突然、

胸の奥に落ちてくる言葉だった。


凪の母は、

優しい人だった、と思う。


そう“思う”という言い方しかできないのは、

具体的な場面が、ひとつも浮かばないからだ。


弁当を作ってくれた記憶も、

叱られた記憶も、

褒められた記憶も、

どれも、像を結ばない。


ただ、

“忙しかった”という感触だけが残っている。


まるで、

いつも背中しか見せてもらえなかった人物のように。


凪は、歩きながら気づく。


——母のことを考えるとき、

——いつも「声」がない。


言葉も、語調も、

怒りも、笑いも、

すべてが抜け落ちている。


あるのは、

家に灯りがついているかどうか、

その一点だけだった。


子どもの頃、

凪にとって母は、

人ではなく「状態」だった。


灯りがついていれば、安心。

消えていれば、静寂。


それだけで、

母という存在を理解したつもりになっていた。


駅に着き、

電車に乗り込む。


車内は空いていて、

広告の文字だけが、やけに饒舌だった。


凪は座席に腰を下ろし、

膝の上で手を組む。


すると、

不意に、ひとつの情景が差し込んでくる。


——母が、誰かと話している背中。


それは、

灯ではない。

自分でもない。


玄関先。

低い声。

夜。


凪の胸が、きゅっと縮む。


(……あれ?)


今まで、

母が誰かと話している記憶など、

一度も思い出したことがなかった。


母は、

いつも一人で帰ってきて、

一人で出ていく人だったはずなのに。


電車の揺れが、

その情景を、はっきりさせないまま押し流す。


だが、

“なかったはずの記憶”が、

“あったかもしれない”に変わった瞬間だった。


凪は、息を整える。


(……灯)


灯の言葉を思い出す。


——今すぐ、思い出さなくていい。


その言葉は、

今になって、

母の声に似ている気がした。


理由は分からない。


ただ、

“先に決めておく人”の声だ。


母も、

灯も。


凪に選ばせる前に、

選択肢を減らす人たちだった。


家に着く。


玄関の灯りは、消えている。


鍵を回すと、

いつも通りの静けさが迎えた。


靴を脱ぎ、

リビングへ向かう。


そこで、

凪は足を止めた。


テーブルの端。

壁際。


何もないはずの場所に、

“何かが置かれていた気配”がある。


実際には、何もない。

だが、

そこに空白がある。


まるで、

長い間そこにあった物を、

無理に片づけたあとみたいに。


凪は、その場に立ち尽くす。


(……誰の、居場所だ)


問いは、

声にならず、

空気に沈む。


そのとき、

スマートフォンが震えた。


母からの着信。


珍しくもないはずなのに、

指が、一瞬動かなかった。


深呼吸して、

通話ボタンを押す。


「……もしもし」


『あ、凪? 今、大丈夫?』


母の声は、

記憶の中と同じように、

淡々としている。


だが、

今日は違った。


その声の奥に、

“隠している前提”がある。


凪は、それを聞き逃さなかった。


「……うん。大丈夫」


『そう。なら、よかった』


一拍。


『……あの子のことで、病院から連絡が来た』


胸が、音を立てる。


「あの子……?」


『灯ちゃんのこと』


母は、

“当然の共有事項”のように言った。


凪の中で、

何かが、静かに反転する。


母は続ける。


『凪には……まだ、重たいかもしれないけど』


その言い方が、

すでに答えを含んでいた。


凪は、ゆっくり言う。


「……母さんは」


喉が渇く。


「母さんは……灯のことを……」


言葉が見つからない。


だが、

母は、迷わなかった。


『家族だと思ってるよ』


その一言で、

部屋の空気が変わった。


静寂が、

意味を持ち始める。


『ずっと前からね』


ずっと前。


その時間の長さが、

凪には測れない。


凪は、

床に落ちた自分の影を見つめる。


それは、

一人分より、少し大きく見えた。


凪は、ようやく理解する。


——母は、隠していたのではない。

——凪が壊れないように、

——“言わなかった”だけだ。


電話越しの母の声は、

遠くて、近かった。


『凪』


その呼び方は、

昔から変わらない。


『全部、思い出さなくていい』


その言葉に、

凪の胸が、静かに痛んだ。


それは、

許可ではなく、

待機だった。


「……うん」


凪は、短く答える。


電話を切ったあと、

凪はリビングに立ち尽くしたまま、

天井を見上げる。


白い天井。


だが、

そこにはもう、

何も書いていないとは思えなかった。


——家は、

——最初から完成している場所じゃない。


——後から、

——誰かが住んだ痕跡で、

——ようやく形になる。


凪は、

まだ見えない“妹の居場所”を思いながら、

静かに目を閉じた。


記憶は、

まだ戻らない。


だが、

家という言葉は、

確実に、

重さを持ち始めていた。

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