第十九章:家という言葉は、いつも遅れて刺さる
観察室を出たあとも、凪の耳はまだ水の底にあった。
廊下を歩く足音が、現実のものなのか、自分の鼓動なのか、判別できない。
灯は、凪の少し前を歩いていた。
距離は、三歩分。
触れられないほど遠くはなく、
かといって、手を伸ばせば届くほど近くもない。
その距離が、今の二人そのものだった。
白い廊下は相変わらず均一で、
角も、影も、逃げ場もない。
凪は、そこを歩きながら思う。
——病院の廊下って、家に似ている。
必要なものはすべて揃っているのに、
長くいればいるほど、
自分の居場所が分からなくなる。
灯が、角を曲がる前に立ち止まった。
「……凪」
呼ばれて、凪は反射的に立ち止まる。
体が先に反応して、心が半拍遅れる。
「今日は……ここまででいいと思う」
灯は振り返らずに言った。
その声は、拒絶ではなかった。
かといって、引き留めでもない。
“今日は、ここまで”
その言葉の中には、
“続きがある”という前提だけが、静かに含まれていた。
凪は、うなずこうとして、
その動作がうまくできないことに気づいた。
首を縦に振るという単純な行為が、
今は、ひとつの決断のように重い。
「……うん」
それでも、声は出た。
思ったよりも、ちゃんとした音だった。
灯はそれを聞いて、
ほんの一瞬だけ、肩の力を抜いた。
それから、また歩き出す。
凪は、その背中を見送りながら、
胸の奥で、別の引き出しがきしむのを感じていた。
——家。
その言葉が、
今日だけで、何度も自分の中を通過している。
凪にとって家とは、
帰る場所ではなく、
戻っても何も変わらない場所だった。
玄関。
靴箱。
静まり返ったリビング。
母は忙しく、
凪は一人で、
それが“普通”だと思っていた。
だが、
医師の言葉が、遅れて胸に落ちてくる。
——君の妹さん。
妹がいる家。
それは、
凪の知っている家とは、形が違う。
知らない家具が置かれているような、
間取りが、勝手に変えられていたような感覚。
違和感は、怒りではなかった。
恐怖ですらない。
ただ、
「知らないはずのものを、失った気がする」
その感覚だけが、
じわじわと体温を奪っていく。
凪は、談話室に戻った。
さっきまで座っていたソファは、
もう誰かの体温を失って、
ただの布と金属に戻っていた。
凪は腰を下ろし、
天井を見上げる。
白い。
何も書いていない。
なのに、
頭の中では文字が増えていく。
——灯は、いつから“妹”だったんだ。
問いは、形になりきらず、
煙のように漂う。
答えを探そうとすると、
記憶の奥で、
何かが一斉に身を伏せるのが分かった。
それは、拒絶ではない。
“今はまだ触るな”という、
自分自身からの警告だった。
凪は、目を閉じた。
すると、
はっきりした映像ではなく、
感触だけが浮かんでくる。
・誰かが、夜中に泣いている気配
・ドアの向こうで、小さく鳴る咳
・自分の部屋の電気を消さずに眠った夜
どれも、
灯の顔には結びつかない。
だが、
**確実に「一人ではなかった夜」**の感触だった。
凪の喉が、ひくりと鳴る。
(……俺は)
(本当に、一人だったのか?)
問いは、
答えを求めるより先に、
凪自身の形を揺らし始めていた。
今まで信じてきた“自分の過去”が、
実は、
一部だけ切り取られた地図だったのだとしたら。
白い廊下の向こうで、
エレベーターの音が鳴った。
上か、下か、
凪には分からない。
ただ、その音を聞きながら、
凪は確信する。
——記憶は、戻るものじゃない。
——掘り起こすものだ。
しかも、
一人では無理な場所に、
埋まっている。
凪は、ゆっくり立ち上がった。
胸の奥にある引き出しは、
まだ閉じたままだ。
だが、
鍵の場所だけは、
ようやく分かり始めていた。




