第十八章:名前を失くした家族のかたち
白い世界が崩れた——
そう感じたのは一瞬だった。
次の瞬間、凪はそれが崩壊ではなく、沈下だと気づいた。
床が抜けるのではない。
自分だけが、静かに下へ沈んでいく。
水の底に潜るときのように、音が遠のく。
観察室の壁も、灯の顔も、医師の白衣も、
すべてが薄い膜を一枚挟んだ向こう側に移動していった。
——妹。
その言葉だけが、鉛のように胸に落ちてきた。
凪は口を開いたはずだった。
けれど、声は喉の途中で折れ、
壊れた鍵のように、意味を開けなかった。
(妹……?)
言葉を頭の中で転がす。
すると、その輪郭が、妙に滑らかなことに気づく。
角がない。
引っかからない。
まるで、ずっと前からそこにあった言葉のように。
違和感は、拒絶ではなく、
**“思い出せないのに、否定もできない”**という形でやってきた。
凪の胸の奥で、
古い引き出しが、ぎ、と音を立ててずれた。
中身は見えない。
ただ、長い間開けられていなかった木の匂いだけが、
かすかに漏れてくる。
灯が、凪を見ていた。
その視線は、説明を求めるものではなかった。
「覚えてる?」でも、「違うよね?」でもない。
ただ——
“やっと、ここまで来たね”
そう言っているようだった。
凪はその視線から逃げるように、視線を床へ落とす。
白い床。
傷ひとつないはずの床が、
今は無数の細い亀裂で覆われているように見えた。
それは床ではなく、
凪自身の記憶だった。
「……俺」
声が出た。
驚くほど、弱い音だった。
自分の声が、
他人のもののように聞こえる。
「俺……妹なんて……」
言葉の続きを探すが、
“いない”とも、“知らない”とも言い切れない。
すると、医師がゆっくり口を開いた。
「凪くん。
“覚えていない”というのは、“なかった”とは違う」
その言葉は、
凪の胸に積み上げてきた理屈を、
一本ずつ抜いていくようだった。
医師は続ける。
「記憶には、
思い出せる形と、
思い出してはいけない形がある」
灯が、ぎゅっと両手を握りしめた。
その指の白さを見て、
凪は不意に思う。
——ああ。
——この手を、俺は昔から知っている。
理由はない。
場面も浮かばない。
ただ、知っているという感覚だけが、
胸の底に沈んでいる。
それは、
幼い頃に嗅いだ石鹸の匂いを、
名前は思い出せないのに「懐かしい」と感じるのに似ていた。
凪の呼吸が浅くなる。
(妹……)
その言葉を、もう一度心の中で転がす。
すると、不思議なことに、
“妹”という響きの周囲に、
いくつもの感情がまとわりついているのが分かる。
守らなければ、という焦り。
近づきすぎてはいけない、という恐怖。
離れたくない、という願い。
——全部、灯に向けて抱いてきたものだ。
胸が、ぎゅっと締まる。
凪は、ようやく灯を見た。
灯は、泣いていなかった。
だが、それは強いからではない。
涙が、もうずっと前に使い切られていたからだ。
「……凪」
灯の声は、
ガラスの縁をなぞるように、慎重だった。
「今すぐ……思い出さなくていい」
その言葉に、凪の中で何かがほどけた。
思い出せ、とも言われない。
忘れていい、とも言われない。
ただ、
今はここにいろ
そう言われた気がした。
凪は、深く息を吸った。
肺が痛む。
それは、長い間、
浅い呼吸しかしてこなかった証拠だった。
「……灯」
名前を呼ぶと、
胸の奥の引き出しが、もう一度きしんだ。
少しだけ、
ほんの少しだけ、
隙間が広がる。
だが、中身はまだ見えない。
医師が静かに告げる。
「凪くん。
今日、全部を知る必要はない」
「記憶は、
壊れたものを一気に直そうとすると、
かえって崩れる」
凪は、頷いた。
今の自分は、
地震のあとに入る建物のようなものだ。
一歩ずつ、確かめながらでなければ進めない。
灯が、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その言葉が、
誰に向けられたものなのか、凪には分からなかった。
医師かもしれない。
凪かもしれない。
あるいは——
思い出されずに済んでいる、
過去の自分たちかもしれない。
観察室の白い光は、
少しだけ、やわらいで見えた。
崩れ落ちたと思った世界は、
実はまだ、
形を変えながら残っていたのだと、
凪は遅れて理解する。
そして、胸の奥で確信する。
——これは、終わりじゃない。
——ようやく、“入口”に立っただけだ。
白い廊下の向こうで、
次の扉が、音もなく待っている。




