表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/33

第十七章:白い静脈の奥

白い廊下は、灯が去ったあとも、まだ灯の体温を引きずっていた。

凪がソファに沈んでいると、空調の音だけが遠くでかすれて鳴っている。


**“置いていかれた”**という感覚は、凪にとって昔から苦手な感情だった。


子どもの頃、夜遅くに母の帰りを待ちながら、玄関の灯りのスイッチを何十回も触っては離した。

点ければ希望、消せば諦め——そんな単純な線引きに答えを求めた頃の癖が、いまだに体に残っている。


だから、灯が白衣の女性に呼ばれて歩いていく背中を見るたび、凪は玄関の灯りをまたひとつ消されたような気がしていた。


しかし、この日は違った。


胸の奥に、微かな痛みとともに“ひっかかり”が生まれていた。

それは比喩ではなく、本当に胸の下で風船の口を指で押さえたような圧だった。


——灯の歩き方が、いつもと違った。


ゆっくりで、でも迷ってはいない足取り。

まるで、あらかじめ決めた道をなぞる人間の歩き方だった。


凪は立ち上がった。心が勝手に足を動かしていた。


「……灯」


声にはならなかったが、喉がそれだけを言おうとしていた。

凪は談話室を出て、灯が進んだ廊下へ向かった。


白い廊下には、灯が歩いたばかりの“静脈”のような痕跡が残っていた。

部屋の窓に反射した光、床に落ちたブランケットの糸、空気の湿り気。

凪はその痕跡を追う。


まるで、灯という存在そのものが、白い世界へ“吸い込まれ”ようとしている気がした。





観察室の前に着くと、ドアは半分閉じられていた。

小さな透明窓から、灯の姿がぼんやりと見えた。


白い部屋。白い天井。白いベッド。

灯は椅子に座り、担当医と話している。声は小さく、言葉は断片しか聞こえない。


「——はい……ええ……もう、決めました」


決めた?何を?


担当医の声が返る。


「本当に、ご自身の意思で?」


灯は頷いた。


「はい。……ここに、残ります」


凪の心臓が、耳の奥で跳ねた。


残る?


ただの入院延長の話ではない。

灯の声には、何か“終わり”に似た響きがあった。


担当医が静かに言った。


「ご家族には……?」


「まだ。でも……伝えます。ちゃんと」


凪の指が震える。


灯はうつむき、指を組んだ。

その手は、談話室で震えを隠したときの灯と同じだった。

けれど——あのときより、少し“諦め”が深かった。


凪は扉を開けようとした。

だが、ドアに触れた瞬間、背後から誰かの声がした。


「凪くん? こんなところでどうしたの」


振り返ると、看護師が立っていた。

驚いたような、しかし警戒も含んだ表情だった。


「……灯さんの面談、今は入れないよ」


「灯が……ここに、“残る”って……言ってましたよね?」


看護師は一瞬だけ凪の顔をじっと見た。

それは“嘘を見抜く目”ではなく、“核心を伝える覚悟を探す目”だった。


「凪くん……灯さん、ご家族に伝えるって言ってたけど……」


喉が鳴る。看護師の声がゆっくりと降りてきた。


「——凪くんの家族に、だよ」


凪の世界が、半歩だけ横にずれたような気がした。


「……え?」


「灯さん、ずっと言ってたよ。『凪くんのお母さんに、迷惑をかけてしまう』って」


息が止まる。

看護師は続けた。


「灯さんね……退院してから、行く場所がないって言ってた。でも凪くんの家に“置いてもらっていた”って」


心臓が大きな音を立てる。


——置いていた? 誰を?


凪の記憶がざわつく。


家には誰もいなかった。

夜、帰れば静寂だけがいた。灯が来たことなど、一度も——


看護師が慎重な声で言った。


「灯さん、言ってたんだよ。『もう、凪の家に戻らなくていい』って。『凪のお母さんに迷惑だから、全部わたしが決める』って」


凪の背中が冷たくなる。


「……うちの……母……?」


看護師は静かに言った。


「凪くん。灯さん、あなたのお母さんと“何度も会ってる”って」


頭が真っ白になる。

灯と母が会った?いつ?どこで?


そんな記憶は——ない。


看護師はさらに続けた。


「お母さんが、灯さんの保護者欄にサインしたんだよ。“凪の友人として、精神的に支え合っている子だから”って」


それは——灯が家族扱いされているということだった。


凪は喉の奥で呟いた。


「……なんで、そんな……」


看護師は、そっと凪の肩に触れた。


「灯さんね……“自分が凪くんを壊してる”ってずっと言ってたの。だから、ここに残るって」


凪の胸が潰れる。


灯は凪を傷つけたくないから、白い世界に残ろうとしている。

凪は灯を救いたいのに——灯は凪から離れようとしている。


白い廊下が遠くで鳴った。

観察室のドア越しに、灯が医師と最後の言葉を交わしている。


「お願いします……今日から、入院を延ばしてください」


凪は耐えきれず、ドアに手をついた。

声が漏れた。


「灯……」


けれど、灯には届かない。


凪は息を吸い、心の奥が裂けるのを感じながら——扉を押し開けた。


その瞬間、観察室の白い光景が、凪の目に洪水のように流れ込んできた。

灯が振り向く。

驚いたように目を見開く。


凪はただ、その名前を呼んだ。


「灯」


その呼び声には、ここで初めて、凪自身の“震え”が込められていた。


灯の表情の奥で、何かが揺れた。

それは、白い世界に沈む前の灯火のようだった。


次に灯が言う言葉が——凪の人生の形を変えると直感でわかった。


灯は、ゆっくり唇を開いた。


「……凪。 どうして、来たの?」


凪は答えようとして、そのとき——

医師の言葉が、背後から突き刺さった。


「凪くん。灯さんは“君の妹さん”なんだよ。君、覚えていないの?」


白い世界が、音もなく崩れ落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ