第十七章:白い静脈の奥
白い廊下は、灯が去ったあとも、まだ灯の体温を引きずっていた。
凪がソファに沈んでいると、空調の音だけが遠くでかすれて鳴っている。
**“置いていかれた”**という感覚は、凪にとって昔から苦手な感情だった。
子どもの頃、夜遅くに母の帰りを待ちながら、玄関の灯りのスイッチを何十回も触っては離した。
点ければ希望、消せば諦め——そんな単純な線引きに答えを求めた頃の癖が、いまだに体に残っている。
だから、灯が白衣の女性に呼ばれて歩いていく背中を見るたび、凪は玄関の灯りをまたひとつ消されたような気がしていた。
しかし、この日は違った。
胸の奥に、微かな痛みとともに“ひっかかり”が生まれていた。
それは比喩ではなく、本当に胸の下で風船の口を指で押さえたような圧だった。
——灯の歩き方が、いつもと違った。
ゆっくりで、でも迷ってはいない足取り。
まるで、あらかじめ決めた道をなぞる人間の歩き方だった。
凪は立ち上がった。心が勝手に足を動かしていた。
「……灯」
声にはならなかったが、喉がそれだけを言おうとしていた。
凪は談話室を出て、灯が進んだ廊下へ向かった。
白い廊下には、灯が歩いたばかりの“静脈”のような痕跡が残っていた。
部屋の窓に反射した光、床に落ちたブランケットの糸、空気の湿り気。
凪はその痕跡を追う。
まるで、灯という存在そのものが、白い世界へ“吸い込まれ”ようとしている気がした。
◇
観察室の前に着くと、ドアは半分閉じられていた。
小さな透明窓から、灯の姿がぼんやりと見えた。
白い部屋。白い天井。白いベッド。
灯は椅子に座り、担当医と話している。声は小さく、言葉は断片しか聞こえない。
「——はい……ええ……もう、決めました」
決めた?何を?
担当医の声が返る。
「本当に、ご自身の意思で?」
灯は頷いた。
「はい。……ここに、残ります」
凪の心臓が、耳の奥で跳ねた。
残る?
ただの入院延長の話ではない。
灯の声には、何か“終わり”に似た響きがあった。
担当医が静かに言った。
「ご家族には……?」
「まだ。でも……伝えます。ちゃんと」
凪の指が震える。
灯はうつむき、指を組んだ。
その手は、談話室で震えを隠したときの灯と同じだった。
けれど——あのときより、少し“諦め”が深かった。
凪は扉を開けようとした。
だが、ドアに触れた瞬間、背後から誰かの声がした。
「凪くん? こんなところでどうしたの」
振り返ると、看護師が立っていた。
驚いたような、しかし警戒も含んだ表情だった。
「……灯さんの面談、今は入れないよ」
「灯が……ここに、“残る”って……言ってましたよね?」
看護師は一瞬だけ凪の顔をじっと見た。
それは“嘘を見抜く目”ではなく、“核心を伝える覚悟を探す目”だった。
「凪くん……灯さん、ご家族に伝えるって言ってたけど……」
喉が鳴る。看護師の声がゆっくりと降りてきた。
「——凪くんの家族に、だよ」
凪の世界が、半歩だけ横にずれたような気がした。
「……え?」
「灯さん、ずっと言ってたよ。『凪くんのお母さんに、迷惑をかけてしまう』って」
息が止まる。
看護師は続けた。
「灯さんね……退院してから、行く場所がないって言ってた。でも凪くんの家に“置いてもらっていた”って」
心臓が大きな音を立てる。
——置いていた? 誰を?
凪の記憶がざわつく。
家には誰もいなかった。
夜、帰れば静寂だけがいた。灯が来たことなど、一度も——
看護師が慎重な声で言った。
「灯さん、言ってたんだよ。『もう、凪の家に戻らなくていい』って。『凪のお母さんに迷惑だから、全部わたしが決める』って」
凪の背中が冷たくなる。
「……うちの……母……?」
看護師は静かに言った。
「凪くん。灯さん、あなたのお母さんと“何度も会ってる”って」
頭が真っ白になる。
灯と母が会った?いつ?どこで?
そんな記憶は——ない。
看護師はさらに続けた。
「お母さんが、灯さんの保護者欄にサインしたんだよ。“凪の友人として、精神的に支え合っている子だから”って」
それは——灯が家族扱いされているということだった。
凪は喉の奥で呟いた。
「……なんで、そんな……」
看護師は、そっと凪の肩に触れた。
「灯さんね……“自分が凪くんを壊してる”ってずっと言ってたの。だから、ここに残るって」
凪の胸が潰れる。
灯は凪を傷つけたくないから、白い世界に残ろうとしている。
凪は灯を救いたいのに——灯は凪から離れようとしている。
白い廊下が遠くで鳴った。
観察室のドア越しに、灯が医師と最後の言葉を交わしている。
「お願いします……今日から、入院を延ばしてください」
凪は耐えきれず、ドアに手をついた。
声が漏れた。
「灯……」
けれど、灯には届かない。
凪は息を吸い、心の奥が裂けるのを感じながら——扉を押し開けた。
その瞬間、観察室の白い光景が、凪の目に洪水のように流れ込んできた。
灯が振り向く。
驚いたように目を見開く。
凪はただ、その名前を呼んだ。
「灯」
その呼び声には、ここで初めて、凪自身の“震え”が込められていた。
灯の表情の奥で、何かが揺れた。
それは、白い世界に沈む前の灯火のようだった。
次に灯が言う言葉が——凪の人生の形を変えると直感でわかった。
灯は、ゆっくり唇を開いた。
「……凪。 どうして、来たの?」
凪は答えようとして、そのとき——
医師の言葉が、背後から突き刺さった。
「凪くん。灯さんは“君の妹さん”なんだよ。君、覚えていないの?」
白い世界が、音もなく崩れ落ちた。




