第十五章:灯の欠片が落ちる音
その日、病棟の空気はやけに乾いていた。
まるで壁に染みつく湿度まで削り取られたようで、凪はナースステーションを通り抜けるだけで喉の奥がざらついた。
廊下の端に、灯の姿はなかった。
代わりに、白い面談室の前で看護師が書類をめくっていて、凪が近づくとふと顔を上げた。
「あ、凪くん。今日の灯さん……少し調子が落ちてるから、話せるとしても短時間になるかもしれないよ」
調子が落ちてる。
その言葉は、まるで灯の身体のどこかにひびが入ったみたいに感じられた。
凪はうなずくしかなかった。
けれど胸の奥では、いつもより深く波が崩れていた。
ドアをノックすると、返事は帰ってこなかった。
看護師が軽く開けてくれると、灯はベッドに座って、膝の上で指を組んでいた。
白い部屋に溶けそうなほど細い。
窓の光に肩の骨の影が浮き上がり、まるで“影のつくり方を忘れた人間”のように見えた。
「……灯?」
凪の声に、灯は少し遅れて顔を上げた。
瞳の奥の焦点が、まだ世界の手前で迷っているようだった。
「ごめんね。今日、あんまり喋れる気がしないの」
凪は首を振った。
「喋れなくても、そばにいるだけでいい」
灯は一瞬だけ目を閉じて、かすかに笑った。
その笑みは、いつもの灯の“灯り”というより消えかけた蝋燭の火がふっと揺れるような微弱さだった。
「凪は……優しすぎるよ」
優しすぎる?その言い方は、まるで責めているようですらあった。
「優しさって、時々ナイフより鋭いんだよ」
灯の指先が震えた。
「“あなたがいなかったら壊れていた”って言われるより、“あなたのせいで生き延びてしまった”って感じる日もあるの」
凪は息を呑んだ。
灯は続ける。
「私が生きてるのって……誰のためなんだろうね」
その言葉は、とても静かで。
だけど凪の胸を、音もなく深く切り裂いた。
凪は口を開こうとして、閉じた。
正しい言葉が見つからない。
灯はひとつ深呼吸して、自分の胸のあたりを指でそっと押さえた。
「ここに、“透明な石”みたいなのがある。動くたびに、カラカラ音がして苦しいの」
凪は眉を寄せる。
「病院が怖いの?」
灯は首を振った。
「違うの。 ……“生きるほうが怖い”の。」
そのときだった。
ドアがノックもなく開き、白衣の医師が顔を出した。
「灯さん、時間です。処置室へ」
灯の肩がびくりと震えた。まるで身体ごと影に引かれるみたいに。
凪は思わず灯の手を掴んだ。
「待って……!」
医師が凪に目を向ける。感情の読めない、病院特有の“無表情”だった。
「今日はもう面会は終わりです。また来週に」
灯が小さく首を振る。
「凪……来週、私まだここにいるのかな」
凪の胸に、冷たい針が刺さったようだった。
医師が灯の肩に触れようとしたその瞬間、灯はベッドから立ち上がり、凪のほうへ一歩近づいた。
「ねえ凪。もし……もしね」
灯は、凪の目をまっすぐに見た。
弱さと強さが同時に震える、あの灯のまなざしで。
「もし私が消えても…… あなた、私のこと、覚えていてくれる?」
その一言で凪の喉は塞がれ、声がどこにも見つからなかった。
医師が灯の腕を軽く押し、灯は連れて行かれる。
去り際、灯は振り返って、小さく微笑んだ。
けれどその笑みは、“別れの仕方が上手い人間だけが浮かべられる笑み”だった。
凪は動けなかった。
灯がドアの向こうで白に飲まれていくのを、ただ立ち尽くして見送った。
――灯が消える。
その予感だけが、白い部屋よりも濃い影として凪の胸に沈んでいった。




