第十四章:白に滲む輪郭
病院の自動ドアは、夕方になると少しだけ軋む。
それは、古い戸棚が悲鳴を上げているようでもあり、どこかで誰かが深呼吸しているようにも聞こえた。
その日、凪が病院に着いたのは、いつもより少し遅い時刻だった。
放課後の教室で、必要以上に明るく振る舞った反動が胸に重く残り、歩くたび、身体の中心に小石が転がるような鈍い感覚があった。
白い廊下は、夕暮れの光を受けて薄い桃色に染まっていた。
その色は、まるで誰かの頬の内側を透かし見ているようで、凪は一瞬だけ足を止めた。
——灯は、今日、調子がいいだろうか。
その問いは、凪の胸の“中心の位置”をわずかに変える。
学校でも家でも生まれなかった種類の重さだった。
休憩室に入ると、灯は窓際ではなく、珍しくラウンジチェアに座っていた。
膝に開かれたノートの上で、鉛筆が止まっている。
「凪くん、今日、遅かったね」
灯の声は、夕日に溶けそうなほど柔らかかった。
「……ちょっと、帰り道で気分悪くなってさ」
すると灯は、凪の顔を見る前に、凪の“手首”をそっと見るように視線を落とした。
「今日、手の震えがいつもより強いね」
「……わかるの?」
「声よりも、手のほうが本当のこと言うから」
灯が凪を見る目は、医師でも、家族でも、友人でも持てなかった種類の“精度の高さ”があった。
凪が隠そうとするものを、驚くほど正確に拾い上げてくる。
凪は、言い返す気力をなくしたように椅子に座り込む。
「灯は……今日は?」
「今日は、朝だけ嵐だった。今は静か」
灯は自分の胸のあたりを軽く叩いた。
「嵐って、ここに降るんだよ。天気予報では言わないけど、気圧みたいに急に来るの」
その比喩が、凪の胸にしっとりと染みた。
灯の“嵐”は、凪の“砂利”と同じ場所にあった。ただ、言葉の形が違うだけだ。
凪は、灯のノートを覗いた。
そこには、白でできた人の形を、鉛筆でそっと縁取ったようなスケッチが描かれていた。
「それ……誰?」
灯は一瞬答えず、指先で鉛筆の跡をなぞった。
「輪郭の中に、誰もいない人。わたしが“白い部屋”にいるとき、いつもああいう気分になるの」
「……怖くないの?」
灯は首をかしげた。
「怖いよ。でもね、空っぽって、意外と居心地いいの。だって、何も期待されてないから」
その一言が、凪の胸に深く沈んだ。
期待されない場所。誰も見ていない場所。演じなくていい場所。
凪は思う。
——もしかして、灯と話すときだけ、自分は“透明”じゃなくなっているのかもしれない。
灯がふっと笑う。
「凪くん。今、変な顔した」
「してない」
「してる。なんか…… “ようやく息吸えた”って顔してる」
凪は言葉を失い、少しだけ俯いた。
灯は続けた。
「わたしね、凪くんのそういう顔、好きだよ」
その瞬間、凪の胸に積もっていた砂利が、音を立てて少しだけ崩れた。
でも同時に、ひどく危うい気配もした。
灯の言葉は、凪には軽すぎた。
軽いのに、心の奥深くに刺さりやすかった。
依存は、いつだって“救い”の仮面をしてやってくる。
その兆しに気づきながら、凪は灯から目をそらすことができなかった。
灯もまた、凪の視線を避けようとしなかった。
夕日に照らされた膝の上のノートは、白い輪郭の人影を静かに浮かび上がらせていた。
二人の距離が静かに歪み始める前夜のように、病棟の空気は深く、深く沈んでいた。




