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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第十三章:白い部屋の外側で

病院の廊下は、凪にとって一種の“海”だった。


静かに波打つ蛍光灯の白、靴音の淡い反響、扉の向こうで時折聞こえる笑い声や泣き声。

どれもが、凪の胸の底に沈んだままの感情を揺らす潮のようだった。


面談を終えた凪が待合室に向かう途中、曲がり角の先に“灯の病棟へ続く鍵付きの扉”が見えた。

ガラス越しの廊下には誰もいない。ただ、白が満ちて、静かだった。


その静けさに、凪の心は不思議と引き寄せられる。

灯のいる世界は、ここからたった数メートル先にある。

けれど、鍵ひとつで隔てられているその距離は、学校で誰と話すよりも、家で母と向き合うよりも——近くて、遠かった。


「……また、来るから」


誰に言うでもなく呟いたとき、背後で柔らかな声がした。


「また来ていいんだよ、凪くん」


振り向くと、灯がいた。


職員に付き添われて廊下を歩いてきたところだった。

薄い病衣の袖が揺れ、髪は湿ったように額へ落ちている。


「面談、終わったんだね」


灯は凪を見つけると、胸の奥をそっと掬うような笑みを見せた。


凪はうまく返せない。

灯と目が合うたび、胸の内側の砂利が音を立てて転がる気がした。

ざらざらと、痛いのに少しだけ温かい。


灯の職員が軽い会釈をして離れていくと、灯は凪にだけ分かる声の小ささで言った。


「こっちまで来てくれると、なんか安心するんだよ」


凪は一歩、灯に近づいた。


「……休めてる?」


灯は、少しだけ言葉を選ぶようにして笑う。


「休んでる、のかな。病棟にいると、時間が水の底みたいにゆっくりで…… 楽かって聞かれたら、苦しい。でも、苦しいけど静か。」


凪は胸の奥がきゅっと縮まった。

灯は続ける。


「ねえ凪くん、 私はここで“白くなる”練習をしてるんだと思う」


「白くなる?」


灯は病棟の奥を見た。


「心に色がつきすぎると、重くなるでしょ?期待とか、不安とか、誰かの言葉とか。だから、“一度白く戻る”必要があるみたい」


その比喩は、灯らしくて、少し切なかった。


凪はほんの一瞬、自分の胸の奥の重さについて言葉にしそうになった。

学校のこと、家のこと。言葉にしてしまえば崩れてしまう均衡。

でも灯にだけは、その均衡を崩してしまってもいい気がした。


「……俺もさ。最近、色が重い」


灯は、凪を見た。

驚いたような、でも納得したような、そんな混ざった表情で。


「凪くんは、白になりたいの?」


凪は答えられなかった。

灯は続ける。


「もし白になりたいなら…… 白い部屋で会おうよ。凪くんも」


凪の胸に冷たい風が入ったようにざわめいた。


「……俺は入院じゃないし」


「うん。でもね」


灯は少し首をかしげた。


「白い部屋って、場所のことだけじゃないよ」


凪はその言葉を理解できずに黙った。


灯は凪の袖を少しだけつまんだ。

紙の端をつまむような、壊れ物に触れるような優しさで。


「白い部屋ってね、“誰にも見せない気持ちを置いておく場所”のこと」


灯の言葉が凪の胸にひりつく。


「もし凪くんが、自分の白い部屋を、ひとりで抱えきれなくなったら…… 私、そこに行くよ」


灯はそう言って微笑んだ。

その笑顔は、光の粒子をそのまま人の形にしたような儚さだった。


その直後、職員が灯を呼んだ。


「灯さん、時間ですよ」


灯は凪に向き直り、名残惜しそうに小さく手を振った。


「また来てね。 来なくてもいいけど……来てほしいな」


凪は、喉が詰まったようになりながら頷いた。


灯が病棟の奥へと歩いていく。白い扉が閉じる寸前、灯は振り返って目だけで微笑んだ。

扉が閉まると、世界が少し音を失った。


凪は、自分の胸の奥にある色の塊が、さっきより少しだけ重くなっていることに気づいた。


――灯が白くなるために戦っている場所で、自分は色を濁して立ち止まっている。


その距離が、凪には耐え難いほど“同じに見えて”しまった。


だから凪は歩き出した。

扉から離れ、白い廊下を抜けながら、胸の奥の色がざらざらと音を立てて崩れていくのを感じながら。


そして思った。


——いつか自分も、灯の白い部屋で会うことになる気がする。理由はまだ分からない。でも、その予感だけが妙に確かだった。

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