第十二章:白昼のひびの音
病院の前庭には、いつも消えかけた色しかなかった。
曇り空の灰色と、古いベンチの木目の褐色と、植え込みの深緑。
その中を歩く凪だけが、どこか“借り物の存在”のように浮いていた。
学校を休む日が増え、保健室のベッドを抜け出すようにして病院へ向かうようになった。
行ってはいけない場所へ行く足取りというより、逆だった。
呼ばれているのだ、と凪は思った。灯の声に。
白い廊下を歩くたび、凪は小さなきしみを感じた。
まるで床下のどこかで、知らない誰かが鍵を回すような音。
病棟という建物の奥で、目に見えない機械が凪の名前を呼んでいるような気がした。
その日の灯は、前より少し顔色が悪かった。
頬のラインは以前より細く、紙の端のようだった。
ベッドの端に腰かけ、両手を膝の上に揃えた姿は、まるで“正しく畳まれた悲しみ”みたいだった。
「凪、来たんだね」
声はいつもより柔らかく、沈んだ音階だった。
凪は頷いた。
「学校は……?」
「午前だけ行った。午後は、なんか……ここにいたほうが落ち着く」
灯は微笑む。
でもその笑みはどこか曖昧で、湯気のようにすぐ消えそうだった。
「凪くん、“ここにいたほうが落ち着く”って言ったでしょ。でもね、それって本当は“ここなら壊れてもバレない”ってことだよね?」
凪の胸が一瞬だけ凍った。
灯は凪を見つめたまま続ける。
「私がそうだったから。ここはね、壊れる音を吸収してくれる場所なんだよ。みんな、自分の心の破片をそっと落としていくの。白い部屋は、それを何ごともなく飲み込んでくれる」
「……灯は、その破片を落としすぎたの?」
灯はわずかに目を伏せた。
「落としたんじゃなくて……“捨て続けた”の。自分の形がどんどん薄くなるのに、気づかないふりをしてた」
凪は息を飲んだ。
灯の言葉は、凪自身に突き刺さる鏡のようだった。
「ねえ、凪」
灯は、白い指先でベッドのシーツをつまむ。
「私が入院した理由……知ってる?」
凪は首を横に振った。
知りたいと思いながら、聞くのが怖かった。
灯は静かに呼吸を整えると、ゆっくり語り始めた。
「家にね、“透明の時間”があったの。誰の声もしない。誰も帰ってこない。時計だけが生きてて、私だけが止まってるみたいな」
それは凪が知っている孤独に、とてもよく似ていた。
「ある夜、私は思ったの。“生きる理由を探すより、生きる理由を減らしてしまえばいい”って。持ち物を捨てるみたいにね」
灯は淡々とした声で言うが、その中にはどこか“遠くの熱”があった。
「そのとき、私は家のベランダに出て…… 手すりを越えるのが、怖くなかった。むしろ、そこに“終われる形”があるのが安心だった」
凪の指先が震えた。
「でも……どうして戻ってきたの?」
灯は凪のほうをゆっくり向く。
「戻ったんじゃなくて……見つかったの。近所の人が通報して、救急車が来た。私は“引き戻された”だけ」
その言葉はひどく静かなのに、重みは鋼鉄のようだった。
凪は横を向きたくなった。
灯の過去が、凪の胸に刺さる。自分と重なりすぎるのだ。
灯はふっと息を吐いた。
「ねえ凪。私、あの日の自分を誰にも見せたくなかった。弱くて、ぐしゃぐしゃで、色も形もない自分を」
「……わかるよ」
凪が答えると、灯は少し驚いたように目を見開いた。
凪は続けた。
「俺も……似てるから。家で、誰もいなくて。自分が何の形で立ってるのか、わからなくなる日がある」
灯はしばらく黙って凪を見つめた。
そして、小さく笑った。
「ねえ凪。じゃあ、私たちさ……」
「……うん」
「“同じ白”を見てるんだね」
その言葉はどこか救いのように、凪の心に落ちた。
灯の瞳の奥に、凪は自分の“割れた部分”をそっくり見た気がした。
その瞬間――面談室のドアが開き、看護師が顔を覗かせた。
「灯さん、観察室、行きますよ」
灯が微かに強張る。
凪の胸に冷気のようなざわりが走った。
灯は白い廊下の奥へ連れていかれ、凪だけがそこに残された。
離れていく灯の背中は、まるで白い霧の中に沈む影のようで――凪は、胸のどこかで“何かが裂ける音”を聞いた気がした。
その音は、灯のものか、凪のものか、それとも二人をつなぐ見えない膜のものだったのか――凪にはまだわからなかった。
だがこの日を境に、凪の世界は静かに、形を変え始めた。
灯はただの“患者”ではなくなった。
凪の胸の奥に潜む、もうひとつの“白い部屋”そのものになったのだ。




