表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/33

第十章:白の外側で息をする練習

灯と会うたび、凪の中で何かが静かに形を変えていった。


それは恋でも友情でもなく、もっと曖昧で、でも確かに体温を持つ感情だった。

名をつけようとすると逃げていく。

けれど灯の隣に立つと、胸の奥で別の名前が勝手に呼吸を始める――そんな感情。


その日の病院は、いつもより白が濃かった。


雨上がりの湿った空気が、廊下の蛍光灯に吸い寄せられ、床のタイルの表面に薄い光の皮膜をつくっている。

凪が歩くたび、その皮膜は斜めに揺れ、病棟全体が海みたいに微かに波打った。


灯はナースステーションの前で待っていた。

病院の着替えの上下を着ているだけなのに、どこか儚く、凪にはいつも“この世界に仮住まいしている人”のように見えた。


「今日は、ちょっと外に出ない?」灯は言った。


「外?」


「病院の裏庭。看護師さんに許可取ったから」


灯の声は軽かったが、その軽さの奥に、かすかな緊張が混じっていた。


凪は頷く。


裏庭へ続く非常扉を押すと、湿った風がふわりと二人を包んだ。

病棟の白い空気より少しだけ、人間の匂いがする。


灯はゆっくり深呼吸をして、言った。


「ねえ凪。 あなたさ……鬱とか、不安とか、人に言わないで飲み込んでるでしょ」


凪は返事ができず、靴の先で砂利をかすかに蹴った。

灯は続ける。


「わかるよ。私もずっとそうだったから。誰かに“弱いね”って言われるのが怖いくせに、誰にも本当のことが言えないの」


凪の胸の奥の氷が、わずかに割れた。


「……俺は、弱いよ」


「うん。弱いよ」灯はあっさり頷いた。


その素直さに、逆に救われた。

灯はベンチに腰を下ろし、凪の方に顔を向ける。


「でもね、弱いからこそ誰かを理解できることもあるんだよ。凪はその…誰かを助けようとして、自分を切り刻むタイプに見える」


「切り刻む……?」


「うん。自分の心を薄く削って、相手の心の穴に貼りつける感じ。そういう子って、最後は自分の形がわからなくなる」


その比喩は、恐ろしいほど正確だった。

凪は返す言葉がなく、喉の奥に硬い石を押し込まれたような気分になった。


灯は空を見上げた。


灰色の雲がゆっくり流れ、わずかな青の隙間を探している。


「私もね、昔そうだったの。家族の前では元気を演じて、学校では明るい人を演じて…… 演じてるうちに、どれが自分の顔かわからなくなった」


「それで……ここに?」


灯のまつげが揺れた。


「うん。一度、全部手放したくなったんだ。全部。期待も、未来も、記憶すらも」


それは“比喩”ではなく、灯の人生そのものだった。

灯は続けた。


「だから凪が時々、少しだけ遠い目をするの……わかる。あの目はね、“生きる理由を探すのに疲れた人”の目だよ」


空気が止まった。


それは、誰にも言われたことのない指摘だった。

家族にも、友達にも、医者にも気づかれなかったもの。

灯だけが見抜いていた。


凪は小さく息を吐いた。


「……灯には敵わないな」


灯が微笑む。その笑顔は弱々しいのに、どこか凪を照らした。


「敵う必要なんてないよ。私、凪といると……ちゃんと“生きてる”って思えるんだ」


凪の胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。

だが、その温度と同時に、小さな不安が影を落とす。


――灯は、俺に頼りすぎていないか?


灯は凪を見る。

その瞳は透明で、まるで深い湖の底に落ちていく光みたいだった。


「凪。白い部屋で会おうね。もし、あなたの世界が黒く染まる日が来たら……」


その言葉に凪の背筋がわずかに震えた。


(白い部屋?)


でも問い返す前に、灯はすっと目をそらし、立ち上がった。


「看護師さんに呼ばれる時間だ。それじゃ、また面談の日に」


灯が去る背中は、風の中で少し揺れていた。

薄い影が地面にのび、その影さえ、綺麗に整った白い病棟の中では浮いて見える。

凪はその影を見つめながら思った。


――灯は、壊れているわけじゃない。ただ、透明になりすぎているだけだ。


病院の裏庭の空は少しだけ青く、その青さは凪の心にゆっくり溶けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ