第十章:白の外側で息をする練習
灯と会うたび、凪の中で何かが静かに形を変えていった。
それは恋でも友情でもなく、もっと曖昧で、でも確かに体温を持つ感情だった。
名をつけようとすると逃げていく。
けれど灯の隣に立つと、胸の奥で別の名前が勝手に呼吸を始める――そんな感情。
その日の病院は、いつもより白が濃かった。
雨上がりの湿った空気が、廊下の蛍光灯に吸い寄せられ、床のタイルの表面に薄い光の皮膜をつくっている。
凪が歩くたび、その皮膜は斜めに揺れ、病棟全体が海みたいに微かに波打った。
灯はナースステーションの前で待っていた。
病院の着替えの上下を着ているだけなのに、どこか儚く、凪にはいつも“この世界に仮住まいしている人”のように見えた。
「今日は、ちょっと外に出ない?」灯は言った。
「外?」
「病院の裏庭。看護師さんに許可取ったから」
灯の声は軽かったが、その軽さの奥に、かすかな緊張が混じっていた。
凪は頷く。
裏庭へ続く非常扉を押すと、湿った風がふわりと二人を包んだ。
病棟の白い空気より少しだけ、人間の匂いがする。
灯はゆっくり深呼吸をして、言った。
「ねえ凪。 あなたさ……鬱とか、不安とか、人に言わないで飲み込んでるでしょ」
凪は返事ができず、靴の先で砂利をかすかに蹴った。
灯は続ける。
「わかるよ。私もずっとそうだったから。誰かに“弱いね”って言われるのが怖いくせに、誰にも本当のことが言えないの」
凪の胸の奥の氷が、わずかに割れた。
「……俺は、弱いよ」
「うん。弱いよ」灯はあっさり頷いた。
その素直さに、逆に救われた。
灯はベンチに腰を下ろし、凪の方に顔を向ける。
「でもね、弱いからこそ誰かを理解できることもあるんだよ。凪はその…誰かを助けようとして、自分を切り刻むタイプに見える」
「切り刻む……?」
「うん。自分の心を薄く削って、相手の心の穴に貼りつける感じ。そういう子って、最後は自分の形がわからなくなる」
その比喩は、恐ろしいほど正確だった。
凪は返す言葉がなく、喉の奥に硬い石を押し込まれたような気分になった。
灯は空を見上げた。
灰色の雲がゆっくり流れ、わずかな青の隙間を探している。
「私もね、昔そうだったの。家族の前では元気を演じて、学校では明るい人を演じて…… 演じてるうちに、どれが自分の顔かわからなくなった」
「それで……ここに?」
灯のまつげが揺れた。
「うん。一度、全部手放したくなったんだ。全部。期待も、未来も、記憶すらも」
それは“比喩”ではなく、灯の人生そのものだった。
灯は続けた。
「だから凪が時々、少しだけ遠い目をするの……わかる。あの目はね、“生きる理由を探すのに疲れた人”の目だよ」
空気が止まった。
それは、誰にも言われたことのない指摘だった。
家族にも、友達にも、医者にも気づかれなかったもの。
灯だけが見抜いていた。
凪は小さく息を吐いた。
「……灯には敵わないな」
灯が微笑む。その笑顔は弱々しいのに、どこか凪を照らした。
「敵う必要なんてないよ。私、凪といると……ちゃんと“生きてる”って思えるんだ」
凪の胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。
だが、その温度と同時に、小さな不安が影を落とす。
――灯は、俺に頼りすぎていないか?
灯は凪を見る。
その瞳は透明で、まるで深い湖の底に落ちていく光みたいだった。
「凪。白い部屋で会おうね。もし、あなたの世界が黒く染まる日が来たら……」
その言葉に凪の背筋がわずかに震えた。
(白い部屋?)
でも問い返す前に、灯はすっと目をそらし、立ち上がった。
「看護師さんに呼ばれる時間だ。それじゃ、また面談の日に」
灯が去る背中は、風の中で少し揺れていた。
薄い影が地面にのび、その影さえ、綺麗に整った白い病棟の中では浮いて見える。
凪はその影を見つめながら思った。
――灯は、壊れているわけじゃない。ただ、透明になりすぎているだけだ。
病院の裏庭の空は少しだけ青く、その青さは凪の心にゆっくり溶けた。




