望む結婚、承諾のない婚姻。(3)
「なに……勝手なこと、言ってるの?」
わたしは目の前の女性が何者なのかを悟った。
「お母さんが子ども叱らなくて、他の誰が叱るのよ! 子どもが間違った道に進んだら全力で正すのが親じゃないの!? 自分を憎めばいいって、そんなので済むわけないでしょ! とめなさいよ! どんなことしてもとめなさいよ! 甘やかすだけが愛情じゃないんだよ! “あの子にもとめられない”って他人事みたいに言うのやめなさいよ、親でしょう!」
「奥さ--」
「やめて! わたしにはずっと一緒にいるって約束した人がいるの。この指輪だけ返してくれたってことはわかってるんでしょう!? だったらその呼び名で呼ばないで! 片方が受け入れてない、無理やりな結婚なんて無効よ!」
悲鳴みたいなわたしの声に、おばあさんはたじろいだ。
「親……」
「違うの?」
「いえ……違いません。わたしが、あの子を産んだ母親です」
ため息のようにそう告げると、おばあさんは両手で顔を覆った。
「わたしが--とめるべき、ですよね」
「子どもが可愛い親ならそうするでしょ。少なくともわたしの親はそうするよ。甘やかしてくれるし、叱ってもくれる。全部わたしを大事に思ってくれてるからだよ」
「可愛い……ええ、可愛いです。望んでできたのでもない、婚姻してできた子でもない。それでもあの子はわたしの子。だれよりも可愛い……たった一人の家族」
絞り出すようなおばあさんの声は、まるで途方にくれた迷子の子どものようだった。
「わたしは親を知りません。誰かに愛された覚えもない。言い訳にしか過ぎませんが、親の愛情を履き違えたのですね」
「間違えたなら今からでも叱ってやればいいんじゃない」
「遅くは、ないでしょうか」
「すでに被害が出てる時点で遅いと思うけど、やらないよりいいでしょ。わたしは帰るよ。待ってる人がいるの」
帰る--そう、帰らなきゃ。メルルさんが心配だし、戻らないと黒猫さんだって気にするだろう。
そして、なによりも誰よりもカイに会いたい。
わたしはゴシゴシと乱暴にほっぺたをこすり、両手で頬を叩いて気合を入れた。泣くのはもう終わり。あとは行動あるのみだ!
帰ると宣言しても、おばあさんはとめなかった。
女同士の気安さで、すぽんと夜着を頭から引き抜く。ドレスはくるぶしまであるものだったので、たくしあげて縛った。
そんなわたしの行動を見ても、おばあさんは動かない。もう、とめる気はないようだった。
ここを出て、カイのところに帰ろう。バルルークさんの守護石や着てきた服はなくなってしまったけど、カイの指輪はある。これさえあればいい。
カイ……ああ、でも誓約書ってどうやって破棄するの⁇
「結婚の誓約の無効って、誰に言えば認めてもらえるの?」
「え?」
カイと婚約して、わたしはこちらの婚姻の仕方を教えてもらった。神殿か、神官の立会いの下、魔法紙で作られた誓約書にサインして、拇印を捺す。サインと拇印が誓約の証なんだそうだ。離婚も同じ手続きをするらしい。
それにしても、拇印はともかく、サインはした覚えがない。完全に公文書の偽造だ。
「わたしはサインした覚えはないよ。でも、きちんと無効にしないと、カイに合わせる顔がない」
朝出かけるまで婚約者だった人間が、帰ってきたら別の男の妻になってたとか、笑い話にもならない。
「誓約は自らの名前に誓って行うものです。勝手に破棄すれば、名を失うことになりかねない。だから魔法紙を使うのです。名は存在を表す。その人に地位があればあるほど、名前の持つ力は大きいですし」
「それよ」
「はい?」
「“ナギ”は愛称。身分証もナギで登録されてるけど、わたしのホントの名前はナギじゃないよ。わたしの本名は、多分カイしか知らない。名乗ったけど理解してもらえてなかったみたいだし。ここでは、偽名で誓われた結婚は有効なの?」
「ぎ……めい?」
おばあさんはポカンと口を開けた。
「そう。たとえもし呼び名を失っても、わたしには地位なんてないし、きっとあの人はわたしの名前を呼んでくれる。でもね、無効にできるならその方がいいなって。わたしはカイ以外と結婚はしたくないよ。あの人がいいの」
わたしはベッドに置かれたドレスを手に取った。夜着よりはマシだ。コルセットも用意されてたけれど、苦しいし動きづらいので割愛する。こんなのつけてたら逃げるに逃げられない。
「……多分、双月の神殿に申し出れば」
「そう。そしたらわたし行くね。もっさりが帰ってくる前に逃げさせてもらうから」
「……はい」
ためらいがちだったけれど、おばあさんはしっかり頷いた。わたしに怒られただけで考えを変えたのだとしたら、ホントにこの人は誰かに糺されることも、誰かを糺すこともなかったのかもしれない。最初から気に病んでた風だし。
「バイバイ、おばあさん」
「あのっ……ナギ様、逃げるなら、食堂の脇の台所から外に出れます」
「ありがとう。あとはあの眼鏡をとめておいてくれると嬉しい! じゃあね!」
わたしはおばあさんを一人残して部屋を飛び出した。




