【挿話】彼女の嘆きと、彼の決意
ナギが酔っ払った次の日から、俺はまともに彼女の顔が見れなかった。顔を見るとあの日のことを思い出してしまう。悪いと思ってはいた。彼女がたまにこちらを見つめているのも気づいてはいた。でも。
「がぅ」
責めるような眼差しで、クロムが呆れたように鳴く。俺がナギを避けだしてから、クロムもナギに会えていない。ナギが空気を読んでか怖がってか、俺に近づかなくなったからだ。
「文句言うなよ。元から二人だったろう」
「ガァッ!」
俺の言葉に、クロムが威嚇の声を上げる。本気で怒るくらいクロムはナギを気に入っていたようだった。
俺はクロムの身体に凭れると、力なく視線を落とした。イセルルートに来てから平穏な日が続いているのに、なんだかひどく疲れていた。
嫌われたかな。さすがにもう呆れられてはいるだろう。だってそうされても仕方なくらい彼女を傷つけた。何度か謝りに来ても、俺は取り合わなかった。彼女だけが悪いわけではない。責められるべきは彼女だけではない。あそこにいた大人たちすべてが気をつけるべきだったのだ。彼女が自分たちほどに強くないと気づいてあげるべきだった。
そしてなにより、謝らなければいけないのは俺だ。ナギ、おまえじゃないんだ。頑なに自分を守ろうとしてしまった俺なんだ。
「ちょっと、カイ」
視線を上げると、サジがいた。海のような色合いの瞳に、クロムと同じく責める光を湛えている。
ナギの側を離れてから、サジはこうやって何度か俺を諌めにやってきた。しょんぼりとしているナギをなだめるのはいつもサジだった。近くでナギを見ているからこそ、俺の態度を正したくなるのだろう。
「アナタね、いい加減にしたらどうなの。なにが気に入らないのか知らないけど、いい大人のする態度じゃないでしょ」
「……うるせぇよ」
「ナギちゃんしょげてるわよ。第一寝落ちしたくらいであんな……」
「うるせぇって言ってるだろ!」
幾度となくされた説教が鬱陶しくて、思わず声を荒げる。サジがあからさまにムッとした顔をした。
わかってる。そんなことは言われなくてもわかってるんだよ。こんな子どもみたいな態度がナギを傷つけてることも、サジが言っているのが正論なことも、ナギじゃなく俺が謝罪すべきなのも全部わかってる。
「ああ、そう!」
サジの表情が変わった。いつもの柔和な顔じゃない。凛とした空気が漂う。
「ナギちゃんのために仲を取り持とうと思って動いてたけど、アンタがそういう態度でいるならアタシも容赦はしない」
「な……」
「ナギちゃんは私がもらうから」
座り込んだままの俺を睥睨すると、サジは冷たい声音を俺に向けた。
「知ってる? アンタがヘソ曲げてる間に、私たち仲良くなったんだよね。あれからどれだけ経った? もうそろそろヤークトに着く。つまり一月あまりアンタはあの子を苦しめてたんだよ」
吐き捨てるようなサジの声を聞いて気づく。一月。もうそんなに経つのか。
呆然とした俺を見て、サジが嗤った。
「アンタが占めてた場所、今は私がいるよ。あの子が一番話すのも、一番笑いかけるのも私。悔しい? でもね、手放したのはアンタだよ。私は譲らない。初めて異性として見れた女なんだ。手に入ったなら、渡すわけにはいかないよ」
「……倍ほどに歳が離れてるのになに言ってんだ」
情けないことに、絞り出した言葉はそんなものだった。そんな矮小な俺を、サジは鼻で笑う。
「バッカじゃないの! そんなこと気にしてんの? たかだか十八年よ。あの子が選ぶなら、そんな歳の差、ないに等しいね」
俺の逡巡をバッサリと切って捨てたサジは、冷たい眼差しのまま眉をひそめる。
「……あいつには、還る場所がある」
「それがなに? まだ帰るかどうかなんて決まってないでしょ。こっちを選ぶかもしれない。未来のことなんてわからないもの。今を大切にしてなにが悪いわけ? ……とにかく、敵に送る塩はこれが最後よ。弟分とはいえ、容赦はしないから」
長い髪を揺らして、サジは立ち去った。
ああ本当に、俺はなにやってるんだろうな。ナギを困らせて泣かせて傷つけて、なにがしたいんだろうな。十二も年上の、いい年した男がやることじゃないよ、ホント。
帰りたいと嘆いていた“彼女”。
帰りたいと前を向いて進む彼女。
同じ迷い人でも、同じ人間じゃないのに。その嘆きが、この世界への気持ちが、同じもののわけがないのに。
ナギは一度だって、ただ泣いて自分の身を憐れんで立ち止まったりはしてなかった。泣いても、苦しんでも、必ず前を向いて立ち向かっていた。自分のできることを見つけては、前に進むために必死でやっていた。
彼女は、“彼女”とは違う。
そんな簡単なことに、なんで俺は目をつぶっていたんだろう。
そろそろ、認めなくちゃいけないんだろうな。手放せないなら、他人に盗られるのが悔しいと思うなら、もう誤魔化しようがない。
ごめん、ナギ。
還してやりたいのは本当だ。
守りたいのも本当だ。
でも。
手に入れたいと、そう願ってしまうのも、本当なんだ。




