お家へ帰ろう!
「まぁ、誤解が解けてよかったよ」
ホッとした笑顔を浮かべて、カイはわたしの頰に張り付いていた髪を掬った。目尻にうっすら皺が寄る、そんなところすら愛おしい。
「ごめんな、具合悪いのにたくさん喋らせて。でも、解かないままでいたら、また目を離した隙にいなくなりそうで」
ハイ、その懸念は正しいです。逃げるつもりでした。
今となっては不必要な逃亡劇だったけれど、カイに奥さんと子どもがいると勘違いしたままだったなら、動けるようになった瞬間わたしは逃げ出しただろう。
「疲れただろう。寒くないか? 白湯でも飲むか? 欲しいものがあるなら言ってくれ」
「欲しいもの……ないよ。欲しかったの、カイだけだから……」
心底ホッとしたわたしは、急激に襲いかかってきた眠気に抗う気力を失っていた。
だって側にカイがいてくれる。失ってなかった。ずっと待っててくれた。それどころか、迎えにくるために動いていてくれた。
これ以上ない幸福感に酔いしれていると、カイがぽふっと布団に頭を沈めた。
「……おまえな、反則。こんな、なにもできない状況でそんな言葉ぶち込むとか、生殺しすぎるだろう」
反則? 反則ってなにが?
訊きたいのに、もう会話する余力がない。
「いいよ、もう眠っとけ。その代わり元気になったら覚えとけよ。三年も待ったんだ。もう手加減しないからな」
物騒なセリフとは裏腹な、カイの甘い声音を聞きながら、わたしは眠りに落ちた。
もう、起きる前に見たような悪夢は見なかった。
※ ※ ※ ※ ※
その後、わたしはたっぷり一週間以上寝込んだ。高熱にうなされるわたしに、カイは甲斐甲斐しくお世話をしてくれた。「溺愛してる」ってメイドさんたちが言ってたけど、うん、たしかにね! わたしもそう思う!
そして今、手厚い看護の甲斐あってか、わたしの熱は下がり、もはや普段どおりだ。
「もう、平気だってば!」
熱が高かったときのようにお粥を匙にすくって食べさせようとするカイに、わたしは抗議していた。もう熱も下がったし、そこまでしてくれなくていいです。
「もう自分で食べれるよ。子どもじゃないんだから!」
「そうか。なら、もう我慢しなくていいな」
え、そんなに我慢しながらお世話してくれてたの⁇
「それは……なんかごめんね。もしかして忙しかった?」
「勘違いしているようだが、別におまえの世話のことじゃないぞ? 俺が我慢してたのは」
キラリ、と金の目が光った。なんでだろう、猛獣を思わすその双眸に、ぞくりと背中が震える。
寝台に上半身を起こしていたわたしの近くに手を突き、カイは顔を近づけてきた。
「おまえが欲しいものが俺だというように、俺が欲しいのもおまえだ。心だけじゃなくて、身体も、未来も、すべてが欲しい」
あけすけな物言いに、顔に熱が集まった。絶対今のわたしはゆでダコだ。
「言ったろう? 元気になったら手加減しないって」
強気な宣言に、反論できなかった。なにかを言う前に口を塞がれてしまったから。
息ができないくらいの深い口付けに、追い上げられる。何度も何度も、角度を変えてされるキスに、カイが我慢していたものがなにかわかった。
「今はここまで、だな。これ以上したらさすがに止める自信がない」
熱のこもった視線に、壮絶な色気が灯っている。一方わたしはというと、もう息も絶え絶えだ。暴走するカイ怖い。
「ニーニヤに帰ろう、ナギ。じっちゃんたちもタイスたちも待ってる。皆、おまえが帰ってきたって知って喜んでるよ」
バルルークさん、シャリルさん、サジさん、ラズさん。タイスさんにメルルさん。
いきなり消えたわたしを、皆待っていてくれるという。それはなんて幸せなことなんだろう。
「帰ったら、すぐに結婚しよう。住むところなんてどうとでもなる。俺は、もうこれ以上待ちたくない」
「う……」
「返事は“はい”以外は聞きたくない」
暴走すると手に負えないと思ってたけど、ここまで強引になるとは! 三年って怖い。
でも、わたしの中に「いいえ」の答えなんてなかった。
「はい以外の返事なんてないよ。だって、カイといたいから、カイと一緒に生きたいから、わたしは帰ってきたんだよ?」
目の前のカイに抱きつくと、驚いたのか金の目が見開かれた。でも、それはすぐに嬉しそうにすがめられ、わたしはカイに抱きすくめられる。
「でも、その前にわたし月の神殿に行かないと。ほら……あの、もっさりが、その……」
あのときの激昂するカイを思い出して、つい言葉が尻すぼみになる。
「あの誓約書はじっちゃんの手を借りて破棄した」
苦々しい声に胸に伏せていた顔を上げると、さっきまでの嬉しそうな表情はどこへやら、一転してカイは渋い顔になっていた。そして、そのまま陰険眼鏡の顛末を教えてくれる。
まず、あのとき陰険眼鏡は即死だったそうだ。うん、なんとなく覚えてる。首飛んでたような気がする。うろ覚えだからなんとも言えないけど。
そして、あの偽造された誓約書は、神殿に提出はされていなかったものの、立会人として神官のサインがあったため、一応有効と無効のギリギリのラインと判断されるものだったそうだ。挙句片方が死亡してしまったために、一旦わたしは寡婦扱いになっていたらしい。
そこをカイとバルルークさんが神殿と交渉して、寡婦ではなく、婚姻無効としてくれたということだった。
「あの男の母親が、証人として立ってくれた。おまえに悪いことをしたと。それで腰の重い神官たちもさすがに動かざるを得なかった。なにせ双月は裁きの神だ。不正が明らかになっているものを有効にはできなかったらしい」
「それで、おばあさんは?」
「ハージナル・アゼレートの遺骨を持って故郷に戻った。その後の話は聞いていない」
「そっか……」
あのおばあさんは悪い人じゃなかった。陰険眼鏡の暴走を止められなかったけれど、彼女もまた、被害者だったのだし。
生きていてくれるといい。そう思った。
「……犯罪者の方は?」
わたしの帰還の引き金を引いた犯罪コレクターのことを訊くと、カイはちょっと言い淀んだ。
「ヤークトで取り調べを受けた際、断罪の途中ということもあり、あいつはまだ減力の刺青を受けていなかった。持ち物を取り上げ、魔力が使えない牢の中にいたから安心とされていたのが、舌に刻まれた疾風の魔法陣と、歯に仕込まれた魔石によってその場の衛兵を殺害し、そのまま国外へ逃げたらしい」
そんなことしてたの、あの眼鏡!
「名を変え、船を持つ闇商人を魔法使いということで納得させ、ナザフィアへ渡ってきたらしい」
「なんで魔法使いだと納得するの?」
「水魔法で時化を避け、安全に航海できるからだ。安全に海を渡れるなら、大陸間を行き来して商売したい商人はいくらでもいる。じっちゃんが船を用意した際の交渉条件と同じものを餌に、あいつは新しい身分証と船を手に入れた。そしてラクトピアの王都レオリアに行き、そこでも衛兵と市民を殺して逃げた」
ロイユーグさんのお友達の事件だ。同じ名前のお友達を殺されたロイユーグさんが、すごく怒っていたことを思い出す。
「あいつはウルフレアに流れてきて、そしておまえを見つけた。おまえがむこうの世界に帰った後、暴発した魔法の影響を一番強くくらって前後不覚になったところを、パルティアの魔導師団に捕まって、完全に魔法を使えないようにされた上で、ラクトピアとパルティア、両方で裁かれた。今はもういないよ」
カイははっきりとは言わなかったけれど、犯罪コレクターは……死罪になった。つまり、そういうことらしい。
「よく経緯がわかったね」
「それもこれもじっちゃんのおかげだな。イセルルート共通語を理解する人間は少ないから」
バルルークさん、なにからなにまでお世話になりました!
わたしはここにはいないバルルークさんに、感謝した。ホント、経緯も理由もはっきりとわからなかったのもあって、あの眼鏡は怖かった。
「カイとロイユーグさんは怪我平気だった?」
「まあ、そこそこな。でももう癒えた」
「無事で、よかった……」
本当に、二人が無事でよかった。胸をなでおろすわたしに、カイが再びキスをしかけてくる。
「一緒に帰ろう、ニーニヤに」
ニーニヤに帰ろう。二人で。あそこはわたしの、新たな故郷だ。
キスの合間に告げると、カイが破顔した。
「ああ。明日にでも帰ろう。クロムも待ってるぞ」
わたしは、ようやく帰れたカイの腕の中で、幸せを噛みしめた。




