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逃亡の終わりと、さよならの覚悟。

 動き回ったのがまずかったのか、どうやら熱が上がったようだ。意識が朦朧とする。これじゃ逃亡なんてできやしない。

 もう身体を起こすのもしんどくて、ずるずると地面に崩折れる。さっきまで寒かったのに、今は無性に暑くて、頰に触れる地面が気持ちいいくらいだ。


 このままここにいたら、遅かれ早かれ見つかるだろう。

 逃げなくちゃと思いつつこんなところでへばるのは、わたしのどこかがあの人に会いたいと願っているからなのだろうか。


 頭上に広がる空は青い。気を失う前に見た曇天とは大違いだ。


 ああ、遠くであの人の声が聞こえる。わたしの名前を呼ぶ、大好きなあの声。部屋にいないのが発覚したんだろう。情に篤いあの人は、きっと一緒に探してくれている。溺愛しているという奥さんより優先されているという仄暗い喜びを感じて、わたしは自己嫌悪に陥った。奥さんよりわたしが大切だからじゃない、それは単に人命救助だ。


 見つけて欲しい。

 見つかりたくない。

 会いたい。

 会いたくない。


 でも、もしあの人と再会してしまったとしたら。


 --わたしは、ちゃんとお別れできるだろうか。


 足音が近づく。衣擦れに、靴底が砂を噛む音。

 いやだ、会いたくないの。来ないで、お願いだから。まだ現実を突きつけないで。


 でも、運命はわたしにどこまでも厳しかった。


「ナギ!」


 --ああ!


 酷く焦った声が、わたしの名前を呼んだ。

 駆け寄る足音が地面に響いた。続いて背中と膝裏に手が差し込まれる。


「なんで……」


 かすれた声。

 その声の持ち主の顔が見れなくて、わたしはぎゅっと目をつぶった。


「ナギ? 大丈夫か?」


 やめて。そんな心配そうな声をかけないで。

 まだわたしに心を残していてくれるのかなんて、ありもしない夢を見てしまうから。


「部屋に戻ろう。おまえ、まだ熱が下がってないんだ」

「--いえ、わたしのことは、放っておいて」

「ナギ?」


 歯を食いしばって、わたしはわたしを支えるその腕を押しやった。


「わたしは、すぐに出て行きます。だから、もう気にしないで」

「……なにを」

「助けてくれて、ありがとう」


 たくさんたくさん助けてくれてありがとう。

 たくさんたくさん愛してくれてありがとう。


 まだ、さよならを言う覚悟はできていないから、あなたに告げられるのはありがとうの一言だけだけれど。


 一瞬、沈黙が二人の間に落ちた。


「……とにかく、部屋に戻ろう。話はそれからだ」


 ※ ※ ※ ※ ※


 寝台に戻されたわたしは、精も根も尽き果てていた。ぐったりとされるがまま横たわると、少し身体が楽になるのがわかった。やはり無理をしていたらしい。


「大丈夫か? おまえ、三日も意識がなかったんだぞ」


 額に再び冷たい水で絞った布を当てられながら、そう告げられる。


「目覚めてよかったが、部屋に戻ったらおまえがいなくて本当に驚いた」


 冷たい指が、頬をすべる。大事なものを触るような優しい触れ方に、声をあげて泣きたくなる。


「なんで、抜け出そうとした?」

「……あなたに、会うわけにはいかない、から」

「ナギ?」


 苦しい。

 苦しいよ。


「おめでとう」

「は?」

「結婚したって聞いて」


 瞳は伏せたまま、一息に言う。


「赤ちゃん、男の子? 女の子?」

「……ちょっと待て、一体なんの」

「家族を大切にね。動けるようになったらわたしは出て行くから、気にしないで」

「ナギサ!」


 一際強い声音で名を呼ばれると、顎に手をかけられ上を向かされた。無理矢理合わされた視線に、堪えきれず涙が溢れる。


「あのな、なにを勘違いしてるのかしらないが、俺はまだ正式な妻はいないぞ。妻になる予定だった奴は、三年前に異世界に攫われたきりだしな」

「だって……嘘、だって、あのとき」

「あのとき?」

「一緒に、いたもの。お腹に赤ちゃんがいる人。仲良しだった。ロイユーグさん、義姉上言ってた。お屋敷の人、奥様って。カイ……が、大切にっ……」


 しゃくりあげるわたしの頭に、ぽんと硬い掌が乗せられる。大好きなその仕草が、胸に痛い。


「義姉だ」

「え?」

「だから、義姉だ。アルディスは兄の妻だ。義姉上とロイが呼ぶのは彼女しかいないし、この屋敷で子を宿してるのも彼女だけだ」


 義、姉……?

 告げられたその言葉の意味を、ゆっくりと飲み込む。


「あと、おまえと結婚してないから、俺はまだ妻帯できてない」


 だからこれは婚約指輪のままだろ、と、布団の中にしまっていた指に触れられる。


「全部誤解だ」


 まっすぐな金の眼差しに、こごっていたすべてがストンと胸に落ちた。


「カ、イ」

「うん」

「わたし、こっちで三年も経ってるって知らなくて」

「うん」

「むこうでは一週間だったの。だから、びっくりして」

「うん」

「そしたら、カイが他の人といて」

「うん」

「ロイユーグさんが義姉上っていうし、お屋敷の人は奥様がいるっていうから、間に合わなかったんだと思って」


 泣きながら話すわたしの瞼に、カイが優しくキスを落としていく。


「おまえを待ってたよ。いや、迎えに行くつもりで、この三年、手段を探してた」


 あったかい声が、わたしを包む。


「おかえり、ナギサ」


 その言葉に、わたしは涙を拭いた。この言葉は、笑顔で言うって決めてたから。


「ただいま、カイ!」

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