空白の時間と、カイの選択。
ギルドでバルルークさんに連絡取ってもらえばよかったかもと思いながら、とりあえずは先に神殿に行こうと街を歩いていたときだった。
前方にあるお店から、一組の夫婦らしき人が出てきたのが目に入る。今にも産まれそうなくらいおっきなお腹を抱える奥さんを、労わるように手を貸す旦那さん。
「……え」
見慣れた褐色の肌に銀髪。背の高いその姿は、わたしが今一番会いたい人のものだった。
すうっと、血の気が引いた。心臓をぎゅって氷の手で握られたみたいだった。
いやまさか、だって十一ヶ月だよ? ううん、子どもは十一ヶ月あったら産まれるか。
え、どういうこと? あ、依頼とか? ううん、以外とカイがあんなに穏やかな顔を向けるのは身内くらいだ。わたしとか、メルルさんとか。ライナさんには冷たいくらいだったし。
そう、手こそ繋いでいなかったけれど、楽しそうに話しかける女性に相槌を打つその姿は、親しい間柄を窺わせるには十分だった。
わたしは動けなかった。声さえかけることができなかった。
ただ、遠ざかるその姿を見つめることしかできなかった。
ぽつんと、頰に冷たい雫が落ちる。それはどんどん激しさを増していく。
道行く人たちが傘を差していくのを呆然と眺めつつ、わたしは動くことができなかった。
「あれっ!? 嘘、君……」
どのくらいそのままでいただろう。
突如かけられた親しみのある声に、わたしはゆるゆると視線を動かした。ふっと雨の音が変わる。
「ロイ……ユーグ、さん」
わたしに傘を差しかけるその人は、あの人によく似た眼差しをわたしに向けた。
「ナギさん、だったよね? どうしてここに!? 君、帰ったんじゃ……。まぁそんなことはいいや、兄上が心配してたんだよ。今さ、義姉上の出産で兄上も帰ってきてるんだ。もう、普段は寄り付かないくせにね?」
義姉上。
絶望的なその響きに、信じたくないと心が叫ぶ反面、やっぱりなと納得する自分もいた。
「あれから……どのくらい経ったの?」
「三年だよ。もう君には会えないかと思ってたよ」
三年……。
思いもよらなかった空白の期間に、わたしは目を見開いた。だって、おじさんは一ヶ月経ってたって言ってたのに。二年をこちらで過ごした時間が、むこうで一ヶ月に換算されたのに、何故むこうの一週間がこちらの三年なの。
「っ、待って……!」
耐えきれなくなったわたしは、ロイユーグさんに背を向けて走り出した。
三年。三年だ。
わたしにとってはたったの一週間だけれど、あの人にとっては三年もの月日が流れたんだ。
もう帰らないはずのわたし。もう二度と会えない、そんな相手なら。
……三年という月日は、想う心を過去のものにするには十分だったのだろう。
どうしていいのかわからなかった。
ただ一つわかっているのは、わたしはあの人の前に姿を現しちゃダメだっていうことだった。
だってお腹に子どもがいた。一緒にいた女性の、嬉しそうな笑顔。赤ちゃんからお父さんを奪うなんてしちゃダメだ。
たとえわたしに心は戻らなくても、わたしの存在はいるだけであの幸せを奪うだろう。
「あっ、君、ちょっと……!」
押し付けるようにして身分証を翳し、城門をくぐる。なにか言われたようだったけど、よくわからない。
なんでなの。
どうしてこんなことになるの。
ただ会いたいだけだったのに。
ただ側にいたいだけだったのに。
どうして。
気がつけば迷いの森に戻ってきていた。霙交じりの雨が、肌に当たる。
早くどこかへ行かなくちゃ。ロイユーグさんはきっと気にして探しに来るだろう。見つかっちゃダメだ。どこか、どこか遠くへ。あの人に会わないところへ。
「……っ!」
突然ずざっと足元が崩れた。踏みとどまれずに、そのまま身体は宙を舞う。
一呼吸置いて、全身に衝撃が走った。呼吸が詰まる。
「あ……つぅ、っ」
うまくできない呼吸を、苦しいながらどうにか通すと、軋むように背中や脇腹が痛んだ。視界の上で草が揺れている。
--崖から、落ちたんだ、わたし。
鈍色の空から降る冷たい霙が、しんしんと服に染み入る。防寒用に厚手の服を重ねていても、これだけ雨や霙に降られたら無意味だった。
重く冷たい布は、わたしの自由を奪う。ただでさえ落ちた衝撃であちこち痛めたようだというのに、もう指一本すら動かす力がない。
寒い。どうしよう、せめて服を絞って雨宿りしなくちゃ。このままじゃマズい。
もはや指先の感覚もなくなって、泥に沈み込むようにただただ身体が重いだけだった。
気分は死にたいくらいに最悪だったけど、死ぬつもりはなかった。
だってこの命は、お父さんお母さんにもらって、この世界であの人が大切に守ってくれたものだ。失うなんてこと、できるはずがない。それだけはダメだ。
でも、想いを向けてくれた人たちの気持ちを踏みにじることはできないのに、身体は言うことを利いてくれない。
ぼんやりかすれていく視界に、ふわふわとした白いものが映る。
「ゆ、き……」
霙は、水分の多い雪に変わっていた。
この世界で初めて見た雪と違い、粉雪でなくぼた雪だ。
ゆっくりと視界を白く染めていくそれを見て、わたしは笑った。
恋が叶ったのは雪の下だった。
そして、その恋を失ったのも、また雪が降る中。
--ああ、おかしい。なんて滑稽なんだろう。
会いたかったの。
大好きなの。
あなたが、好きなんです。過去にできないくらいに。
あなたが幸せになるのは嬉しいはずなのに、それが自分とでないことが、こんなに哀しいなんて。
幸せに笑うあなたを許せなくてごめんなさい。
わたし以外と幸せになってほしくないなんて思うわたしでごめんなさい。
まだ、好きで好きで仕方ないの。まだ、あなたがほしいと心が叫ぶの。
行かないで。振り向いて。いつもみたいにわたしの名前を呼んで笑って。
心は貪欲にも、そんな風に悲鳴をあげるから。
そんな気持ちを抱えたままでは、あなたには会えない。
だから、わたしのことをロイユーグさんから聞いても、動かないで。
わたしは少し休んだら、一人で遠く離れたところまで行くから。大丈夫、あなたがくれた知識と、あなたがくれた優しい記憶を持っていけば、どこででも生きていけるはず。
だから、ねぇ、カイ。
どうかわたしを見つけないで。




