アヤちゃん聞いて?
アパートから実家までは、電車で二時間ほどかかる。
窓から流れる景色を眺めながら、わたしは苦しくなった。
そっと服の上から指輪を握る。
道行く人も、建物も、空気すらもなんだかひどく違和感があった。
空気ってこんなにジメッとしてたっけ? 空ってこんなに汚かったっけ? 人ってこんなに機械的だった?
比べるのが間違ってることくらいわかってる。本来わたしの住む世界はこちらだ。
便利で楽しくて安全で生きやすい世界。それなのに、わたしはあの世界が懐かしくて仕方がない。
帰りたい。今すぐにでも、全部なげうってでも、カイの側に帰りたい。この二時間が、むこうの何日分だろう。灼けつくような気持ちが苦しくて、唇を噛み締めた。
「キミ、大丈夫?」
そんな中、不意に声をかけられてふと我に返った。見ると、男の人が覗き込むようにしてわたしを見ていた。なんだかチャラそうなその人は、わたしが気づいたのを知ると、ぐっと顔を寄せてきた。
「いえ、大丈夫……です」
久しぶりに喋る日本語は、どこかぎこちない。ちゃんと話せてるだろうかと心配になるくらいだ。
「もう、降りますし、平気です」
「キミもこの駅で降りるの? オレもなんだ。具合悪そうだし、どう? お茶でもしない?」
具合悪そうって、わたし、そんなにひどい顔色をしてるんだろうか。蒸しタオルと冷たいタオルで目元はケアしたけど、やっぱり腫れてる?
「ね、行こう」
男の人は、そう言うとわたしの手首をつかんだ。
「やめてください」
勢いをつけて手を振りほどくと、ちょうど駅に着いた。逃げるようにしてホームに降りると、その人もついてくる。
「なあ……」
「あんた誰よ? あたしの凪沙になんの用?」
肩をつかまれたところに、よく知った声が被さった。
「アヤちゃん!」
「うわぁ、これまた美人! キミたち友達なの? なあ、お茶でも……」
「ナンパお断り。鏡見て出直してきて。さ、凪沙、行きましょ! 待ってたんだよ〜!」
現れたアヤちゃんに喜んだ男の人は近寄ろうとしたけど、氷点下な彼女の声音にびくりと止まった。
久しぶりに会ったアヤちゃんは、やっぱりアヤちゃんだった。とてつもなく美人で、かなり勝気。
唯我独尊というか、マイペースな彼女は、もう目の前の男の人が見えていないようで、わたしに腕を絡ませると、男の人を押しのけるようにしてずんずん改札へ進んでいく。
「アヤちゃん、どうしてここに?」
「だって早く会いたかったんだもん。凪沙、全然連絡取れないし、心配したんだよ? どうしてたの?」
出発前に連絡したせいか、時間を逆算してホームで待っていてくれたらしい。
「うん……いろいろあって」
「なによ、それ? めっちゃ気になるんだけど?」
緑がかった茶色の目を瞬かせて、アヤちゃんはずずいっと顔を寄せてきた。ふわりといい匂いがする。アヤちゃんのお気に入りの香水の匂いだ。
「それに、なんかしばらく会わない間に凪沙綺麗になってる。前も可愛かったけど、なんか色っぽくなった」
「色っぽ……!」
なにを言い出すのアヤちゃん!
赤面したわたしに、アヤちゃんはニヤニヤとチェシャ猫みたいな笑みを浮かべた。そんな顔をしても美人とか、わたしの幼なじみはすごい。
「本当よぉ! んー、なんか腹立つわ。どこの誰よ?」
「なにが!?」
「彼氏、できたんでしょ? ああ、やっぱり同じ大学行けばよかった! あたしの可愛い凪沙に虫がついた! 大事に守ってたのに!」
たまにアヤちゃんはおかしくなる。
拳を握りしめてひとしきり憤慨していたアヤちゃんは、くるりとわたしの方を向くと、恨めしそうな目つきになった。
「ぜーんぶ聞かせてもらうからね?」
「あ……ハイ」
うん、全部聞いてもらおう。むこうの世界のこと。カイのこと。色々。
信じてもらえるかはわからないけれど、アヤちゃんなら信じてくれる気がする。
そして謝らなくちゃ。この世界でなく、あちらの世界を選んだことを。むこうの世界に行く術を探そうとしていることを。




