31 勇者は、見られる
魔族領を進むにつれ、空気の質が変わっていくのを俺は感じていた。
瘴気が濃いわけではない。
殺気が漂っているわけでもない。
ただ――何かが、噛み合っていない。
(……妙だな)
歩調は一定。呼吸も乱れていない。
それなのに、体の奥に、薄い膜を一枚被せられたような違和感がある。
剣を握る指先が、わずかに重い。
魔力を流そうとすると、いつもより立ち上がりが遅れる。
ほんの誤差。
だが、無視していいものではなかった。
「……呪い?」
一瞬そう考え、すぐに否定する。
呪い特有の“侵食”がない。
精神への干渉も感じられない。
(違うな。もっと……直接的だ)
俺は立ち止まり、周囲を見回した。
見えるのは、荒れ果てた大地と、遠くまで続く岩山。
魔物の気配も、今はない。
それでも――。
背中に、針で突かれるような感覚が走った。
(……見られてる?)
確信はない。
だが、その直感に従うべきだと感じた。
静かにスキルを起動する。
「千里眼」
視界が拡張される。
地形の起伏、岩の配置、風の流れ――すべてが一望のもとに収まった。
異常は、ない。
次に、意識を一点へと絞る。
「鷹の目」
視界が、遥か彼方へと引き伸ばされる。
山の稜線。
崩れかけた岩棚。
その奥――。
「……あれは」
一瞬、星かと思った。
だが、次の瞬間。
それらが、一斉に瞬いた。
赤い光。
いや、“眼”だ。
数えきれないほどの赤い魔眼が、巨大な何かの体表に埋め込まれている。
(蛇……?)
その異様な姿を視認した瞬間、ぞわりと寒気が走る。
同時に、体の重さが増した。
魔力が、さらに鈍くなる。
「……そうか」
俺は、低く息を吐いた。
(あの“眼”に、見られたらダメだ)
攻撃ではない。
防御でもない。
“見る”こと自体が、干渉。
理解した瞬間、取るべき行動は一つだった。
「……地形変更」
俺は地面に剣を突き立てる。
次の瞬間、大地が唸りを上げた。
地面が盛り上がり、岩壁が隆起する。
砕けた岩と土砂が舞い上がり、視界を覆う。
意図的に作り出された、土煙。
千眼の蛇と、自分の間に――“壁”を作る。
すると。
体にまとわりついていた違和感が、すっと薄れた。
(効いてるな)
すぐさま次の行動に移る。
「気配遮断」
呼吸を抑え、魔力の波を沈める。
存在感を極限まで薄くする。
そして、影を選んで移動を開始した。
一歩一歩、慎重に。
決して直線では行かない。
死角から、死角へ。
千里眼で全体を把握し、鷹の目で敵の位置を確認しながら――距離を詰める。
やがて、土煙の向こうに、巨大な影が見えた。
無数の魔眼が、不規則に瞬いている。
(今だ)
俺は一気に踏み込んだ。
剣閃が走り、赤い魔眼をまとめて薙ぎ払う。
甲高い悲鳴。
だが、手応えは浅い。
蛇は咆哮し、巨体をうねらせた。
潰された魔眼の周囲から、新たな眼が開く。
その瞬間。
空間が、歪んだ。
「……へえ」
軽い、感心したような声。
蛇の背後、影の中から、一人の女が姿を現す。
長い銀髪。
冷ややかな瞳。
「見られたあとで、ここまで動けるのね」
俺は剣を構え直し、視線を向けた。
「……その魔物、その魔力。四天王か」
女は口角を上げる。
「ご名答。四天王が一人、魔法を司るエルシアよ。あなたを“処理”しに来たわ。正面から来るのであれば、受け止めてあげる。」
無数の魔眼が、一斉にこちらを向いた。
正面戦闘が、始まる。




