馬車は旅立つ
母はいつも、南棟の最上階に拘束されていた。
美しい人だった。
娘の自分が逆立ちしても敵わないほどに。
「来たのね」
母は、優しい口調でそう言った。
「ママ、パパが認めてくれました。お前には魔術の才があると」
「……そうでしょうね」
母はどうしてか、喜んでくれなかった。
「お父さんは世界の卵が欲しいから、あなたクラスの魔術師は複数欲しいところでしょうね」
「世界の、卵……?」
母は、その問いには答えなかった。
しばし、話題を練るように彼女は黙り込んだ。
「いつかあなたが人として旅をする時のために、名前をあげましょう」
「名前ならもうあるよ?」
「人としての名前も持っていた方がいいと思うの。あなたの選択肢は一つではないから」
思わず、黙り込む。
人間界に行くなんて考えたこともなかった。
「静流」
しばしの沈黙の後、母は言った。
「静かに流れる川の水の如し。それが、静流」
「綺麗な響き……」
「お父さんの前じゃ使っちゃ駄目よ。いい?」
「うん、わかった。じゃあ、そろそろ行くね!」
そう言って、静流は勢い良く駆け始めた。
母にもらった新しい名前が嬉しくて、今にも口から漏らしそうだった。
もう、何年も前のことだ。
+++
「やっぱり馬車だわさ」
馬車の中で目を覚ました静流が言う。
「お前は本当に動くのが嫌なんだなあ」
一馬は呆れ混じりに言う。
「昔は活発な子だった気もするだわさ」
「だわさってのは昔からか?」
「剣術指南の先生の口調が移っただわさ」
「……剣、使えたのか?」
一馬が疑わしげに言う。
しまった、とばかりに静流は体を起こす。そして、再び寝転がった。
「この細腕で剣が使えるように見えるだわさ?」
確かに、静流の腕には筋肉が少しもついていない。
「町に到着するまで寝るだわさ」
「そうだな。帰ろう。俺達の町へ」
「俺達の町、か」
遥が感慨深げに言う。
「帝都でしばらく足止めされたから、少しは発展してるかね」
「家は建ってると思うけどどうだろうな」
一馬は曖昧に答える。どうなっているか、見てみないとわからないというのが現状だ。
一馬の膝の上で寝ていた猫モードのシャロが、大きな欠伸をして顔をかいた。
その吐息は、魚臭い。
人間に変化すれば中々見ない美少女な彼女だが、今は完全に猫だ。
(俺、本当にこいつと結婚すんのかな……)
今更ながらに躊躇いを感じた一馬だった。
+++
「お前が結城の代わりに城に来るようになって三日だな、第三席」
皇帝の前で、新十郎は膝を折っていた。
「は、三日になります」
「何人の側女に手を出した」
「滅相もない」
「お前に手を出されたと主張した人間同士の間で喧嘩が起きておる」
皇帝が、憂うように目を細めて言った。新十郎は、不味いものでも食べたような顔になる。
「……二人」
「本当か?」
「ええ、本当ですとも」
「神に誓えるか?」
「……五人」
「三日でか?」
「はっ」
皇帝は深々と溜め息を吐いた。
「結城ならばこんなことはなかった」
「面目ない」
新十郎は小さくなるしかない。
「結城は軍事にも芸術にも明るく人間関係も大事にし下々の者まで気づかいが細やかだった。たった二席違うだけでこうも変わるものかね」
「恐れながら陛下」
新十郎は顔を上げて言う。
「私は結城ではありませんが、新十郎です。新十郎には新十郎の良さがあります」
「ほう。ならばお前の取り柄を言ってみせよ」
「脳天気なところです。沈鬱な空気になりそうな時にも微笑みを提供することができるでしょう」
「脳天気だから三日で五人の女に手を出せるのではないか?」
痛いところを突かれた。
「恐れながら陛下」
「なんだ。恐れてもいない癖に」
「私達は今、適度な距離感を掴もうとしているところなのです。一ヶ月もすれば、新十郎には新十郎の良さがある、と思って頂けるでしょう」
「まあ第一印象は低いほうがいいと言うものな。しかし」
皇帝は溜息混じりに言葉を続ける。
「結城は私の期待を裏切ったことはなかった」
「私も皇帝陛下の期待に応えるよう邁進する次第です」
「結城なら言わずともそうした」
まいったな、と新十郎は思う。
皇帝陛下は結城の長期休暇に完全に拗ねている。
それに、結城と比べられて勝るほどの知恵が新十郎にはない。
新十郎は、心の中で結城を呪った。
「まあ、気長にやりますか」
苦笑交じりに言う。
「まあ、そうじゃな。今度側女に手を出したらちょん切るから覚悟しておけ」
「はっ!」
新十郎が皇帝の護衛を任されたのは、あやめではチャームで魅了する恐れがあると結城が判断したからだ。
結城は、あやめに関してはまったく信用していないようだった。
そこでお鉢が回ってきたのが第三席である新十郎だった。
結城は今頃一馬達と自由の空か。そう思い、新十郎は少し彼を妬んだ。
+++
「へっくしょん!」
結城は、慌てて口を抑えてくしゃみをした。
結城の妻、優恵が心配そうな表情で顔を見下ろす。
結城は馬車の中で、彼女に膝枕をされている最中だった。
結城達の乗っている馬車、一馬達の乗っている馬車、二つの馬車は並んで進んでいる。
「大丈夫ですか、結城さん。風邪でもひいたんじゃないかしら」
「いや、誰かが俺の噂をしている気がする……」
「自意識過剰」
あやめが本を読みながら、淡々と言う。
「かなあ。第一席長期休暇。噂になってると思うがね」
「そろそろ新十郎が問題を起こしてる頃じゃないかしら」
あやめは本のページを一枚めくった。
「まさか。奴も城では問題を起こそうとは思わんだろう」
「新十郎よ?」
結城は思わず黙り込む。
「まあ側女に手を出したりしたなら結婚させればいい」
「二人に手を出してたら?」
「城だぞ。流石の新十郎も大胆な真似はしないだろう」
「そーかなー。新十郎だからなあ。本当、あんたは一度心を許した相手は信用するねえ。けどね、人間は自分の思ったようにはう動いてくれないものよ」
「俺は新十郎にそんな高度なことを求めているだろうか」
「あんたが普通にこなせることも他人では普通にこなせるかはわからない。元からできるあなたにはできない人間の苦悩がわからない」
「と言われてもなあ……」
「結城さんだってできないことはありますよ」
「おいおい」
妻の思わぬ横槍に結城は苦笑顔になる。
「結城さんは料理が絶望的に下手です」
「旅人としては絶望的ね」
「私も料理下手です。習いたいものです」
朝がしみじみとした口調で言う。
「あら。じゃあ今度教えましょうか? スピカさんと刹那さんはどう?」
外の草原をぼんやりと見ていたスピカは答える。
「私は結婚する気ないから、いい」
「独り身でも美味しい料理を食べれたほうがいいでしょう?」
「……考えとく」
「私はそれなりに作れる方なので」
刹那はそう苦笑交じりに言うと、窓の外に視線を向けた。
「それにしても、夢みたい。結城さんとゆっくり旅をする日がこんなに早くくるなんて」
「大袈裟だな」
結城は苦笑する。
「いいえ、大袈裟ではありません。私は老後になるまで結城さんと旅はできないと思っていましたから」
この細い肩に、どれだけの重荷を乗せてきただろうか。
結城は思わず、妻の体を抱きしめた。
「ごめんな」
「その一言で十分です」
馬車は走っていく。それぞれの思いを乗せて。
第七十話 完
次回『我が家』
本日は七話投稿です。




