憧れ
書店に行き、秋葉先輩の猛烈なプッシュにより買うつもりもなかった参考書を購入し軽くなった財布を尻ポケットに突っ込んだ俺は、使うこともないであろう参考書を片手に秋葉先輩の後ろを歩いていた。
秋葉先輩、ナンパ男たちに囲まれて涙目になっていた先ほどの姿からは想像もできないほど上機嫌である。女心と秋の空、その理由は俺にはわからない。
「榎本くんは勉強よくするの?」
「全くしないです」
「しなきゃダメだよ」
「すみません」
メッと言わんばかりに可愛らしく注意をしてくる秋葉先輩。教師や親に言われたんだとしたらウザさマックスでしかないこのセリフだが、秋葉先輩が言うだけで可愛らしさマックスの癒し言葉になるのはなぜだろうか。世界の不思議である。
「秋葉先輩はよく勉強されるんですか?」
「うーん、まあある程度は?」
恥ずかしそうに答える先輩。だが俺は知っている、こういう類の答えをする人間は必ずと言っていいほどにめちゃくちゃ予習復習をしっかり行っているのだ。同類ですよみたいな顔で近づいてきたって俺は騙されんぞ。
参考書も買ったのでもう帰ってもいいのだが、秋葉先輩を置いて一人で帰ったらまたナンパされそうで怖いので、一応付き纏うことにする。
いや付き纏うじゃなくて付き添うだろ。付き纏ってたらナンパより俺の方が恐ろしいわ。
ショッピングモール内をうろつきながら、他愛もないことを話し合う。
ふと、これってデートなんじゃね? と思ったが秋葉先輩を見てそんな考えを消し飛ばす。この人多分後輩と休みの日に遊べて楽しいなーくらいにしか思ってないわ。多分俺は異性として意識もされてないだろうな。まあそれはそれでいいけど。
「秋葉先輩、お昼食べましたか?」
「まだ食べてないんだ。一緒に食べない?」
可愛らしく尋ねてくる先輩。顔が無駄に良いせいでとんでもない破壊力である。危うく恋に落ちるところだった。俺が涼夏にお熱じゃなかったら普通に好きピ(イケボ)になってたとこだぞ。なられたところで迷惑なだけか。
内心は動揺しまくりだが、それを表情に出さないように返事をする。
「いいですよ。何食べます?」
「ファミレスでいい?」
「もちろん」
秋葉先輩がにっこりと笑う。俺より頭ひとつ分ほど背が小さいので、喋るときには必然的に俺を見上げる形になっている。その愛くるしさがまた素晴らしい。
「先輩ってなんか小動物みたいですね」
「今すごく失礼なこと言われてる?」
「そんなことないですよ。可愛らしいってことです」
むっと頬を膨らませてこちらを見る秋葉先輩。しかし俺が可愛らしいと言うと、頬に溜まっていた空気はぷすーと間の抜けた音を立てながら漏れ出した。
いつもはすごく真面目でちゃんとしているように見えた秋葉先輩だが、なんだか今日は雰囲気が柔らかいというか、いつもよりお茶目で明るいように思える。
頬から空気を抜き切った後、先輩は過去を懐かしむように目を細めて言った。
「けど昔先輩に言われたことあるな。私はクアッカワラビーみたいだって」
「クアッカワラビーってどんな動物でしたっけ?」
「オーストラリアにいる小動物だったような気がする……すごい笑ってるように見えるリスみたいなやつ」
「それって褒め言葉なんですか?」
「多分?」
嬉しそうな表情が非常に眩しい。彼女の瞼の裏には、その当時の光景がはっきりと映されているのだろう。
フードコートにあるファミレスに入る。秋葉先輩の横に立ち、店員に二名です、と微かな優越感に浸りながら言う。自分でやりながらなんだか情けなくなってくるな。
席に座ってからも秋葉先輩は楽しそうに先輩の話をしていた。
「他にも、歩き方がマーラみたいって言われたことあるんだ」
「なんかの動物ですか?」
「私も知らなかったんだけど、足の長いカピバラみたいな動物らしいよ」
「悪口では?」
「見た目じゃなくて、歩き方っ」
再び頬に空気を詰める秋葉先輩。のほほんとしているようだが、やはりカピバラみたいな見た目と言われるのは嫌らしい。当たり前か。
「側対歩っていって、右の前足と右の後脚を同時に出す動物らしいよ。私も緊張しちゃうと時々右手と右足同時に出しちゃう時があるから、言われたの」
それはまた可愛らしいエピソードである。
「じゃあ俺も今度から先輩のことマーラ先輩って呼びますね」
「それはなんだか嫌だからやめて!?」
俺の言葉に、秋葉先輩は大げさにのけぞった。相変わらず良いリアクションをする先輩だ。
しかし、秋葉先輩はその先輩とやらと随分仲が良かったようだ。こんな美人と仲が良かったなんて、少し嫉妬してしまう。いや嫉妬て。一体俺は何様なんだ。
「すごく仲が良かったんですね、その先輩と」
「うん……そうだったんだけどね……」
俺のその言葉に、秋葉先輩の表情がさっと曇った。何やらあまり良い雰囲気ではない。もしかして地雷を踏んでしまったかもしれない。
「実はその先輩、卒業してから連絡取れなくなっちゃったんだ……」
寂しそうにそう呟く秋葉先輩。沈痛な面持ちで俯くその表情から、彼女の悲しさがひしひしと伝わってくる。
しかし、卒業後に連絡が取れなくなった? 俺はその言葉に少しだけ引っかかった。どこかでそんな話を聞いたような……。
「あ、前の生徒会長か」
俺の言葉に顔を上げる秋葉先輩。少しだけびっくりしているようだ。まあ俺はその生徒会長を見たことがないので、知っているのは不自然か。
「知ってるんだ」
「あ、いや、噂程度ですけど」
「そっか。まあ、有名な人だったからね」
頼んだ料理が運ばれてくる。机の上に並べられた美味しそうな食事を前にしても、先輩の顔は晴れない。
「会長、卒業してから全然連絡とれなくなっちゃってさ……少し寂しいな」
「どこに行ったかとかもわからないんですか?」
「うん。いきなりいなくなっちゃったんだ」
しばらく沈黙が俺たちの間で交わされた。
不意に会長が顔を上げ、不自然なほどに明るい声をあげた。
「ごめんね、暗い話しちゃって! さ、ご飯食べよ!」
無理やり明るく振る舞っていることは明らかだったが、それを指摘する必要もない。俺もそうですねと明るい声を出して料理を口に入れた。
「今は連絡取れないけど、だからといって会長と過ごした日々がなかったことになることはないからねっ」
「前の会長ってどんな人だったんですか?」
俺の問いに嬉しそうな顔を見せる秋葉先輩。その目は爛々と輝いている。
「すっごいかっこいい人だったよ! クールで、あんまり喋らないけど優しくて、素敵だったなあ」
「なるほど」
「仕事もすごい出来たし、なんでも当たり前みたいにこなしてたの」
うっとりと会長について話す秋葉先輩はまるで恋する乙女のようだった。
「会長に生徒会に誘われた時、緊張しすぎて何も喋れなかったし顔もずっと強張っちゃってたんだよね。けどそんなときに会長が私に「そのままの君が素敵だよ」って言ってくれたの! すっごく感動しちゃった!」
「はあ」
「それで私が生徒会の仕事してる時も、業務連絡してる時とかもずっとこっちを見てくれてて、ずっと心配してくれてるんだなってなったり!」
「へえ」
「けど私がミスしちゃったらずっと側にいてくれて、さりげなく慰めてくれたり!」
「ほお」
「それでね──」
いかん、止まらん。
決壊したダムから溢れ出した水のように、前会長を礼賛する言葉が滔々と解き放たれる。
布教に熱心になりすぎているのか、先ほどから全く食事に手がついていない。俺はもうすぐ食べ終わりそうだ。
「あとね──」
「本当に前会長のこと好きだったんですね!」
喋り続ける秋葉先輩をなんとか止める。俺の制止にやっと自分が熱くなりすぎていたことに気づいたのか、秋葉先輩は少しだけ顔を赤らめた。
「ご、ごめんね。つい夢中になって喋っちゃった」
「大丈夫ですよ。愛されてますね、その会長さん」
「うん。憧れなんだ。私も会長みたいになりたいなっていっつも思ってる」
なんとも微笑ましい限りである。
小さな口で食事をもぐもぐと咀嚼するその姿からは、落ち着いたとはいえ前会長を褒める言葉がぽつぽつと語られている。本当に恋しているみたいだ。
「憧れてるんだけど、なかなか同じようには出来ないね……」
「そんなことないですよ。俺からすれば秋葉先輩もすごく立派です」
「私なんてまだまだだよ。もし私が会長だったんなら、一人ぼっちで生徒会なんてやってないはずだもん」
寂しそうにそう呟く秋葉先輩。俺たちが生徒会に入りたいと言う生徒を見つけられなかったですと彼女に言った時の悲しそうな表情は、自分自身と自分の憧れである前会長の差を痛感してしまったから故のものだったのかもしれない。
憧れ、ずっと見ていたい、彼女のようになりたい。彼女の口からはこれに似た言葉が延々と飛び出している。
その言葉を聞いていると、ふと自分の中にある感情がそれに似ていることに気がついた。
涼夏を見ていたい。涼夏の傍にいたい。涼夏を見るたびに抱いていたこの感情。
もちろん秋葉先輩が前会長に対し抱いている憧れとは違う、明確な好意ではあるのだが、秋葉先輩の言っていることを聞いていると近頃自分が涼夏に対し抱いているこの感情の名称がわからなくなってきた。
勉強会を通し、俺はツンデレではなく涼夏自身が好きなのだと気がついた。それはその通りなのだが、好きにも種類がある。好意を抱いているの好きか、愛しているの好きか。
愛、だとは自分で思っている。こんなことを自分で考えるのは小っ恥ずかしいことこの上ないのだが、俺は涼夏のことがそういう意味で好きなんだと考えている。
だけど実際はどうだろう。
恋人になろうとしているわけでもなく、特別になろうとしているわけでもない。ただ涼夏の善意に甘えて曖昧な関係を引きずっているだけ。彼女の近くにいるだけの人間A。そんな関係に満足して、特別な感情を抱こうとするたびに自分を戒める俺が、果たして涼夏に恋していると言えるのだろうか?
それならば涼夏に告白をしていた男どもの方がよっぽど涼夏のことが好きだったと言えるのではなかろうか。
入学当初は涼夏と一緒のバスに乗れるというだけで天にも届くほど嬉しかったはずなのに、今では通学時間が他の生徒より長いと少し面倒くさくなっている自分がいる。
涼夏と一緒の教室になって、彼女のことをずっと眺めていた一か月前に比べると、今の俺は一体どれほど彼女に視線を向けているだろうか。
果たして好意と恋の境界線はなんだろうか。自分の心に尋ねてみる。答えはなかった。
「榎本くんも、二宮さんと仲いいよね」
そんなことを考えていたからだろうか、秋葉先輩のその言葉に、少しの間答えることができなかった。涼夏は俺のことをどう思ってるんだろう? 俺みたいに仲がいいと思ってくれているんだろうか?
「まあ、そうですね、たぶん」
曖昧な言葉で濁す。店内に流れるクラシックのような重苦しいBGMが胸に重くのしかかる。
秋葉先輩は食後のデザートも頼むようだった。その小さな体に一体どれほどの食物が詰め込まれているのか少しだけ不思議に思った。
「いいなあ、私は仲のいい同級生があんまりいないから……家が隣なんだっけ?」
「そうです。あれ、先輩に言ってましたっけ」
「この前二宮さんが言ってたんだ。家が隣だったから小さい頃から知ってるって」
小さい頃から知ってる、か。なんとも涼夏らしい、クールな言い方だ。
その言葉の裏に、仲がいいという意味は含まれているのだろうか。もし含まれているのなら、何ともありがたいツンデレだ。
「小さい頃から今までずっと仲良かったの?」
運ばれてきた小さなデザートを小さなフォークで小さくわけ、小さな口へと運んだ小さな先輩はなんとなしに答えにくいことを尋ねてくる。
ここで誤魔化したところですぐにバレそうだ。俺は簡潔に答えた。
「まあ、一時期は仲が良くなかったというか、俺が鬱陶しがられてた時はあります。てかつい最近まで」
「そうなんだ、なんだか意外。傍から見るとすごく仲良しだから」
涼夏もそう思ってくれていたらいいんですけど、と口から出そうになったが何とか口内に留めておいた。そんな愚痴まがいなこと言って何になるというんだ。
何も言えなくなった俺は、静かにそうなんですかと答えるだけにしておいた。
沈黙が流れる。人々の喧騒が俺たちの静謐を取り囲んでいる。
少し気まずくなり、適当な質問を投げかける。
「先輩は小さい頃から仲のいい友人とかいないんですか?」
「全然いないなあ。小さな頃遊んでた友達とかも、大きくなったら遊ばなくなっちゃったし……」
「それこそ意外です。先輩だったらいろんな人と仲良くなれそうなのに」
俺の言葉に、そんなことないよと照れくさそうな表情を浮かべる秋葉先輩。頬を紅潮させる秋葉先輩は、少しだけ大人っぽく見える。
「私、人見知りだから、初めましての人と会話するときなんかは表情がすごく硬くなっちゃうの。だから冷たい人間みたいに見られるから第一印象がすっごく悪くて」
「そうなんですか?」
「初めて会話したとき、すごく冷たい人間に見えたでしょ?」
でしょ? と言われても、全くと言っていいほどに憶えていない。だが記憶にないということは、そこまで冷たかったというわけではないんだと思う。
というか全校生徒に話しかける最中に冷たい人間ならごまんと見たので、多少表情が硬いくらいで冷たいとは感じない。気持ち悪いだのどっか行けだの、本来ドブネズミかゴキブリに投げつけられるような罵詈雑言を一身に受けてきた俺からしたら、冷たい態度なんてそよ風レベルのもんである。
「そんなことなかったと思いますよ。ちゃんと会話してくれましたし、いつもの先輩でした」
「そ、そうかな……」
「はい。少なくとも俺は全く不快には感じなかったですよ」
俺がそう言うと、秋葉先輩は少しびっくりしたような顔を浮かべた後、あつあつのワッフルの上に載せられたバニラアイスみたいにふにゃっと溶けた笑顔を浮かべた。
「そんなこと言われたの、はじめて。すごくうれしいな」
その表情に思わず目を奪われてしまう。それは見る人全てを釘付けにするような笑顔だった。
再び俺の心臓が高鳴り始める。
やばい、これは流石に浮気だ。全然説明はできないしどういう理屈でそうなるのかはわからないけどどう見ても正真正銘浮気だわ。
これ以上涼夏を傷つけるわけにはいかない(別に傷ついてない)!
何とかしなくては……。
よし、心臓を止めよう。
「なんかすごい顔色悪くなってるけど大丈夫!?」
だいじょばない。




