第31話 『傍』から当事者へ
「あー、ビックリした」
言いながら、転げ落ちたメイドは額にできた、たんこぶを擦る。
今の一連のアレコレは、とてもじゃないけどそんな軽い言葉で済ませられるような些事ではなかった筈。
にも拘らず、見る限り大した怪我はない様子だ。
どうやら彼女は驚くべき、頑丈な体の持ち主らしい。
しかし、だとしたら何故彼女は今日この時に死ぬ事に……?
一拍遅れて、そんな疑問が持ち上がる。
しかしまぁ、まだ生きているのならやりようがある。
あとは、最初の計画では件のメイド助けに入る事で当事者になる予定だったのを、どうするか。
新たに一つ、賭けが生まれた瞬間だけど――。
「アン、あんたやったわねぇ?」
階上から女の声が振ってきた。
見上げれば、落ちた方のメイドには見覚えがなかったけど、こちらのメイドには見覚えがある。
よく覚えている。
忘れる筈がない。
だってこの女は、側妃付きのメイド。
側妃の指示に従って、リリアを階段から突き落としたメイド、その人なのだから。
「『やった』?」
「後宮の花瓶、一個幾らすると思っているの?」
「え……あぁっ!!」
冷えた気持ちで側妃のメイドを見ていると、アンと呼ばれた階下のメイドの悲痛な驚きと落胆声が聞こえてきた。
見ればちょうど木っ端みじんの花瓶に走り寄り、破片をかき集めてパズルを試みて――繋いだつもりの破片はもちろん、カチャンという音を立てて再び崩れたところである。
直すどころか、むしろもう一回り小さく割れた破片。
やっと「もう元には戻らない」と理解したかのように、アンがガクッと項垂れた。
それを見てハッと鼻で嗤ったのは、階上のメイドである。
「あんた、取り返しのつかない事をしたわねぇ? これはもう責任を取らないとダメなんじゃない?」
「責任、ですか……?」
「えぇ、責任。貴女がここを辞めるくらいじゃあ足りないでしょうね。弁償するにも、平民出のあんたなんかには生涯身を粉にして働き続けても、とてもじゃないけど払えないような額の物を――王妃様のお気に入りを壊したのだから」
「お気に入り?!」
悲鳴じみた声と共に、真っ青だった案の顔が最早色をなくして白くなった。
階上のメイドはそれを見て、「いい気味だ」と言わんばかりに嫌な笑みで嗤う。
傍から見ればおそらくは、階上のメイドの言い分や感覚は、至極正しいものなのだろう。
平民が、王妃のお気に入りの物を壊した。
このまま王妃の機嫌を損ねれば、下手をすれば首切りがあってもおかしくない。
平民の立場はそれ程までに弱いし、後宮に置いてある調度品は、下級貴族が値段を見ても目玉が飛び出るくらいには高価なものだから。
しかし私は、『傍』ではない。
今、『傍』ではなくなった。
階上のメイドが王妃の――私の名を出した。
その瞬間から当事者になった私には、目の前の現状が少し違って見せる。
憎き側妃のメイドに「ありがとう」などと思う日が来るなんて。
生きていれば思いもよらない事もあるものなのだなと、皮肉的に思う。
彼女が私を騙ってくれたお陰で、私は先程沸いて出た賭けに勝つ事ができる。
「貴女が身売りをしてもダメでしょうね。それこそ貴女の家族諸共奴隷落ちして、どこぞのいい趣味をした好色家に買い取ってもらって、返せる可能性があるくらい――」
「あら。不思議な話をしているのね。その花瓶が、一体誰のお気に入りだと?」
言いながら一歩前に出れば、誰だと言わんばかりの煩わしげな側妃付きメイドの瞳が、私を捉えてギョッと見開かれた。
「王妃様……」
「私の顔は覚えていたのね。てっきり王妃は別の人間だと思っているが故の、ちょっとした勘違いだと思っていたのだけど」
見下ろしてきているメイドを見上げ、笑顔の仮面を被って告げる。
私が口にした嫌味に、彼女は面食らったような顔になった。
しかしそれはすぐに引っ込み、代わりにすまし顔を張り付けて薄っぺらい礼で敬意を示してくる。
「この後宮は、王妃様の管理下。つまりここに置いてある物はすべて、王妃様の所有物です。間違った事は申しておりませんわ。すべては王妃様を敬愛すればこその言葉ですから」
娘を突き落とす事ができるような心持ちで、一体どの口が言ったのか。
抑えていた怒りが、カッと沸騰する。
まるで狙い澄ましたかのようにお腹の内側から体をノックされたのは、その時だ。
……いけない、また感情に呑まれかけていた。
一体何度、こういう状況で危ないところをこの子に救われたか、知れないわね。
そう、内心で苦笑する。
母親だもの。
子どもたちのためにも、冷静にならなければ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
彼女はメイドではあるが、同時に伯爵家の令嬢でもある。
その事を誇りにも思っているように見える。
だから平民出のアンに対して、これまで数々の嫌がらせをしてきたのだろう。
しかしメイドなのであれば、立場は弁えるべきである。
この場を取り繕うためだけの薄っぺらい言葉で騙せると思われていたのなら、心外だ。
「あら。そんな事を言ってもいいのかしら。この後宮の物が本当にすべて私の所有物なら、貴女が仕える側妃様も、私も所有物という事になってしまうけど」
改めて側妃付きのメイドを見据えて悠然と微笑みながらそんな事を言えば、彼女は「なっ?!」と声を上げて反感を隠さない顔になる。
「側妃様を物扱いだなんて!」
「勘違いしないで頂戴ね? あくまでも私は、貴女が口にした言葉の意味を教えてあげただけ。むしろその言葉を言ったのは、貴女。私はそれを窘めたに過ぎない」
そんな私の遠回しの指摘は、正しく相手に刺さったらしい。
グッと悔しそうに押し黙った。
これで彼女は、迂闊な事は言えなくなったに違いない。
彼女が静かに悪知恵を働かせる頭をフル回転させている間に、私はとっとと私の今やるべき事をしてしまおう。
「それで、アン?」
「はっ、はい!」
「貴女、家族諸共奴隷落ちをお望み?」
「とんでもない!」
「では、このまま今の仕事をここで続ける?」




