闇に射し込む光のように……2
ぱきぱきと小枝が折れる音がした。前方の灯火が一瞬で消えた。暗闇の中、何かがぶつかり合う音に金属の重なる音。擦れる音。魔獣の気配は無数にあった。下手に動けば、味方にまで殺られてしまうかもしれない。だから、目が慣れるまで動けなかった。ねっちょりとした生暖かいものが、頬に当たった。
空に、それはあった。そして、前方遠くには赤く光る目があった。背後には木こりを介抱している兵士が一人いたはず。
しかし、兵士の瞳が先に捉えたのはこちらへ向かうバグベアの姿だった。そのすぐ脇から断末魔が響き、闇を濃くする。前方の誰かが、殺られたのだ。
思わず叫ぶ。
「バグベアだっ」
自分たちは運が良かっただけなのだと思った。前方で魔獣の咆吼が幾重にも響いた。すぐさま嫌な臭いが漂う。人間の血液が空気に流れてくるような。人間の叫び声、怒号も混じる。
森に足を取られ、足を挫いた木こりを介抱しようとしていた兵を護衛するため、隊から遅れていたということが良かったのかもしれない。もしかしたら、逃げた方向が良かったのかもしれない。木こりを保護しなければならないという頭で動いたから、人が確実に存在する方向へと足を向けたのが良かったのかもしれない。
何が良かったのかは分からない。
兵士は背後にいる二人の護衛に責務を感じていた。
あの数の魔獣の気配の中から、彼らを追いかけてきたのは、バグベアが一匹だった。大きな蚊のような魔獣アヴカや白い筋肉の塊のような、どこに心臓があるのか分からないようなボヨでなかったのも良かった。
倒し方は知っていた。しかし、出遭ったことのない魔獣。大型魔獣との対峙は二対一が鉄則である。それは、首を落としてもその『時』が止まるまで、その両方が動き続けるからだ。しかし、首があればその動きは素早い。追いつかれるのは目に見えていた。戦うしかなかった。
兵士は何度もその手に剣を弾かれながら、やっとバグベアの首を落とした。
そして、すぐにそれを後悔した。二人いたということが、判断ミスを誘ったのかもしれない。時間をかけても、心臓を狙い続ければ良かったのかもしれない。
これは、一人の戦いだったのだ。
もちろん、月明かりしかない暗闇の中で、心臓を狙えるだけの技術が伴っていたかと言えば、それも微妙なところだった。首を落とすのだって、やっとだったのだから。
首は迷わず木こりへと向かった。不意打ちだったが、もう一人の兵士が木こりを庇い、致命傷を負わずに済んだ。肩にかじりついた頭を引き剥がしたのは彼自身だったが、脇差しの方で仕留めたのは首を落とした方の兵士だった。木こりがいると護りきれないと思った。だから、兵士は「逃げろ」と叫び、本体に致命傷を与えた後から自分も同じ方向へ走ろうと思っていたのだ。後は本体だけだから。動きは緩慢になるはずだから。
彼よりも自分の方が年長で、経験もあったから。
しかし、首と共に脇差しを樹木に突き刺すために取ったその行動の束の間に、バグベアの爪が彼の背中を引き裂き、腕を掴まれた。掴まれた腕の痛みに、思わずバグベアの腕に剣を立てて、弾かれた。
兵士の掴まれた左腕は、自由になったが、使い物にはならなくなっていた。骨にまともに当たった剣の刃がこぼれているのが分かった。
あいつらだけでも逃げ切っていれば良いのだけれど……。
いくら動きが緩慢になっているといえど、力の差が大きすぎた。もう限界かもしれない。
持久力にも自信はあった方だ。しかし、魔獣は疲れを知らない。ただでさえ暗闇に視界を奪われるのに、背中からの出血が止まらず、めまいすら覚え始めている。それなのにバグベアの傷はすっかり塞がり、腕は何事もなかったかのように動き続けているのだ。
背後を狙いたくても、足が縺れる。左腕は折れているようだし、片手で振り下ろす剣は、上手く力が入らず刃こぼれだけし続けているようだ。
頭がないのに、どうして狙ってこれるのだろう。追詰められた兵士は最後の力を振り絞り、剣をその大きな的に突き刺した。
背後が鉄則。それも言ってられなかった。
魔獣の動きは一時も止まらなかった。
あぁ、ずれてたんだ……。力ない笑いがその口から漏れ出ていた。愕然と膝を付き、バグベアを眺める。
痛みはあるのか、仰け反ったその一瞬だけ、兵士から離れる。本来ならば、突き刺した剣を奪い返し、体勢を整えるはずだった。それなのに、考えがまったくまとまらない。脳みそが空を飛んでいるような。体へなんの指令も出さずに、腐っていっているような。
だから、その体に剣を奪われた彼は不思議なことを考えていた。
こいつ、頭もないのに、どうして俺を喰おうとするんだろう……。どうやって喰らうのだろう……。
木々も簡単にひねり潰すような大きな手に、肉をえぐり取るためにある太く鋭い爪。それらを備えている太い腕が、兵士に向かって振り下ろされる。
あれだけ苦戦した月明かりなのに、どうしてこんなことだけよく見えるのだろう。
脇腹辺りに衝撃があり、吹き飛んだと思った。
それなのに、バグベアが彼の横に倒れていた。その背に人がいる。そして、誰かに包まれていた。
「よく頑張りましたわね。でも、バグベアの心臓の位置はもう少し右にありますのよ」
清流を思わせる、そんな澄んだ声に、彼の意識は流されるようにして沈んでいった。
☆
朝の光が森を白く包む。
アノールが帰ってきたふたりと怪我人一人を出迎えて、声を荒げた。
「深追いをするなと、言いましたよね。何かあったらどうするつもりだったのですか」
最初に木こりとエリツェリ兵だけが現れた時のアノールの心は、本当に凍えるほどだったのだ。
「申し訳ありませんでした」
ふたりの声が揃い、アノールが声を強くする。
「ルカが悲しむと思いませんでしたか? セシルが悲しむと思いませんでしたか? アース様が悲しむと思いませんでしたか?」
大切な者の悲しむ顔は、浮かびませんでしたか?
「本当に申し訳ないと思っておられますか? 特にルタ様、分かっておられますか?」
ずっとルディを見ていたアノールが突然ルディを飛び越えて、ルタを名指しする。しかし、ルタはアノールの言う論点があまり掴めていなかった。
「えぇ。分かっておりますわ。お怒りはごもっともです。領主であるアノール様のお言葉に背きましたもの。それに、跡目であるルディを危険に晒す結果となりました。ルディは引き返させるべきでした」
ルタはアノールの怒りが間違いではないことを知っている。だから、その点においてルタは誤りがあったと思っている。
「そういうことではなく、もっとご自身を大事になさるようにということです。ルタ様の考えによれば、危険が及んだらまたご自身が身を挺せば良いと思ったということなのでしょう? それはとても安直で、危険な思考なのですよ」
「……安直であったことは、認めます」
だけど、やはりその意味が分からない。だから、ルディが思わず言葉を継いだ。
「ルタはちゃんと危なくないように『引き返す』も念頭に置いて、それでも助けたいって思った僕の気持ちを汲んでくれて……安直な行動だったとは思えません」
「ルディは、それで良いと思ったのか?」
その父の表情と口調にルディは言葉を引き締め、ルタを庇うようにして前に出る。父が本気で怒っていると思ったのだ。あの時と同じだ。ときわの森へ一人で入って、帰ってきた時と。ルタはきっと、アノールがそんな心配をしているなんて、思ってもみないだろうと思った。さらに言えば、ルディがディアトーラを支えていくのだ。ルタではない。ルディが護らなければならない者の中に、ルタだって含まれている。
「良い……とは。でも最善であったとは、思います。危険がなかったかと言えば、それは違います。しかし、この者を助けたかったのは自分ですし、夜の森へ入った以上、危険は避けられません。その上での最善でした。だから、ルタを叱らないでください。責めを負うのであれば、私なのですから」
そう言いながら、しかし、ルディはこの兵士を助けた瞬間を脳裏に浮かべていた。本当の危険があったのであれば、あの時だ。そして、ルタの行動は理に適っていた。しかし、……だけど……。
「いいえ、わたくしが、ルディを唆したも同然なのです。ルディはわたくしを止めようとしましたわ。わたくしが耳を貸さなかったのです。安直な行動だったと言われても仕方がありません」
「唆されてなんていません」
ルディはさらに否定するが、ルタが小さく頭を振る。
「ルディ……わたくしは、あなたを思うように誘導する自信があります。どんな言葉をかければ、どのように感じ、どのように動くのか、よく分かっております。だから、これはわたくしの責任となるのです」
「でも、ルタは安直なんかじゃないから、唆してもないから」
「では、お前はルタ様を失っても良かったのだな」
アノールの言葉にルディが口を噤む。そんなわけないじゃないか、という言葉を発せられなかったのだ。失うかもしれない選択をしたことには違いないのだ。しかし、その言葉の下からルタが静かに叫んだ。
「ルディはそんなこと思っていませんわ」
代わりに告げられたルディを庇うルタの言葉に、アノールは黙ってルタを見つめた。そして、静かに尋ねる。
「ルタ様のお言葉によりますと、私の息子はあなたの思うように誘導され、殺されてしまうかもしれないと、そう言いたいのですか?」
「父さんっ!」
ルディが叫び、アノールを睨み付けた。
ルタは、この兵士も助けられると思ったから、ルディの気持ちに寄り添った。そして、最善であったからこそ、ルディは否定しなかっただけだ。
『行く』を決めた時、ルタはルディを誘導したわけではない。知りたかったのだ。自分の中にある『助けたい』と思う気持ちが間違っていないのかどうか。
しかし、ルタはバグベアの懐に潜り込んだ時を思い出しながら、思った。アノールの言う『深追い』に当たるのであれば、あの時だ。
あの時、あの一瞬。
ルディがバグベアの懐から心臓を狙うと言った。狙いが定まっているバグベアが、すぐにルディに気付くとは限らないから、そのまま押し倒して彼を救うという意味だということはすぐに分かった。
それから、体勢を整える算段だったのだろう。
それでも良かったのだ。しかし、ルタはルディを心配した。
バグベアからあの若い兵士を引き離すことが出来れば、いくらでも態勢が整う。
しかし、懐に入るということ自体の危険は避けられないのだ。それはとても危険な賭けになると判断したから、ルタが首を縦にしなかった。
もちろん、ルタは安全確認を怠ったわけではない。帰ってくることが出来ると踏んだから、進んだのだ。だけど、確かに、どこかで『もしもの場合は』と考えていた。いや、確かにこの兵士を助ける際には、危険な方をルタ自身が取るべきだと思い、取った。
その時でさえ、実際は大丈夫だと思っていた。
ルディなら仕留めると思っていたから、ルディよりも小柄な自分の方が、潜り込みやすいと思ったから。すべて『思う』に由来する、根拠のないもの。安直と言われて仕方のないものである。しかし、アノールの表情はルタが思うものとは別のものだった。
だから、ルタは思い巡らせたのだ。どうしてルタは、ルディの計画を否定したのかを。アノールの表情が、どうして、怒りだけではないのかを。
「……同じなのですね」
アノールはルタの行動自体を安直だと言っているのではないのだ。同じなのだ。心配で仕方がない。心配だから……感情が溢れる。
「……心配されるとはこういうことを言うのですね」
ルタを心配したその結果、その行いを窘められる。
「アノールの言葉の意味が分かりました。わたくしは、ルディを危険な目に遭わせたくありません。だけど、その気持ちにも寄り添いたいと思っております。矛盾しておりますが、そうなのです。わたくしでは、アノールに安心していただくことは出来ないかもしれませんが、きっと、変われません。ここにいても良いと仰ってくださるのであれば、信じていただくしか、ありません」
今までルタはそんな経験をしたことがなかった。ワカバやルディを心配することはあったが、ルタ自身を心配する者などいなかったのだ。失敗を責められたり、責任を問われたり、一方的に責任を押しつけられたりはしてきた。間違わなくても、罵られ、恐れられるだけの存在だったのだから、それも気にしなかった。
「ルディ……アノールもルディと同じで温かい人間だというだけなのです。だから、もうそんな顔しないでください。わたくしまでもを心配してくださるなんて、思いもよりませんでしたから。失礼な勘違いをしてしまいました。どうかお許しください」
その言葉にアノールは虚を突かれたように、言い淀んでしまった。咎めているのに温かいと言われては身も蓋もないし、さらに温かいだけの人間にされてしまっては、威厳もなにもあったものじゃない。
「まったく、貴女という方は……」
警戒のないルタは、素直に言葉を発する。嘘はつかない。その辺りはまるで小さな子どものようでもある。真っ直ぐに魔女として生きてきた、それは今も同じなのかもしれない。
ルタは真っ直ぐにここを護ってくれようとしている。そして、アノールの真意は伝わった。それで良いように思えるのだから、本当に油断ならない。本当に、敵として臣下として出会わなくて良かったと思える。しかし、やはり釘も刺しておきたいのが親心でもある。
「間違ってはいませんよ。でも間違っているのです。どうか、もう心配させないでください。貴女の無事がなされないと、この国の皆が心配してしまいます。そして、私は、貴女を信じております。先ほどは、失礼を申し訳ありませんでした。でも、ほんとうに、とにかく良かった。ルディとルタが無事でいてくれて」
アノールだって、救える者があるのならば救いたいと思う。同じ場所にいたのなら、同じように行動したかもしれない。しかし、今回は、ルディとルタを失ってまで救わなければならない命がなかったのだ。
森に分け入った者が、エリツェリの者だという確実な証拠があれば良かっただけで。
「とにかく手当てを致しましょう。応急処置はされてあるようですが、色々折れたままのようですし」
闇に包まれていた森が、すっかり光に包まれ、碧く輝き始めていた。














