外側の世界
ルタはやっぱり、一人で座っている。
なんて分からず屋な人間なのだろう、とも思った。もう大丈夫だと、あれだけ言ったのに。その一点において全く譲らないのだから。
だから、カズはルディに付けてやった。もう一人でも大丈夫。理由はたったそれだけだけれど、……。我ながらつまらない仕返しをしたものだとも思っている。
しかし、ここから祝杯を待つ烏合の衆をただ眺めていると、何だか心が落ち着いてくるのも確かだ。
景色の外側にいる、この感覚が懐かしいのだ。
昔の感覚のように思えて。
たった数年程前まではこちら側にいたのだ。
人間社会で起きることは、物語の中にあるようで。ルタはそれを読み解く側にあり、ルタ自身の未来に大きな影響をもたらすことがなかった。
魔女であった頃、ラルーとしてあった頃、ルタは今のように人間の営みをただ眺めていた。人間が生きるために用意された世界に、ラルーという存在はその一枚絵を完成させるための必要なピースではなかったのだ。同じような形をしたパズルを組み立てる。絵を見つめる。そして、必要なピースを拾い上げ、仕上げていく側だった。
世界はいつも流動して、変化を止めなかった。過去が変わろうと、今が変わろうと、魔女であろうと人間であろうと、世界は何かに変えられ続けた。
それなのに、彼らは同じようなことに苦しみ、同じようなことで喜ぶ。同じようなことで助かり、同じようなことで喜ばされる。腹を立てたり、悲しんだり。
そして、同じようなことを望み、失い、絶望した。
分かるようで分からない感情で、同じようなことを繰り返す人間達を見つめ、また繰り返すのかと、呆れたこともある。
だから、愚かな者であると思っていた。
しかし、ルタの見つめる先にある烏合の衆は、それぞれが違う形をしていた。それぞれが、僅かな違いを持って動いている。
どれも同じに見えていたのに。
今のルタは、この場所からでも群衆の中のルディが見つけられるし、遠く離れていてもルカがこの時間にどんなことをしているか、そんなことも思い浮かべることができる。
軽食を食べて、お腹がいっぱいになった頃だろう。お昼寝の寝ぞろが始まって……セシルを困らせてなければ良いのだけれど……。寂しがっていなければ良いのだけれど……。だけど、お姉さん二人にたくさん遊んでもらって、遊び疲れて眠ってしまったかもしれない。そう思うと、そんな不確実な想像に安心を覚えようとする。
あぁ、アースは無理をしていないだろうか。森は荒れていないだろうか。今ディアトーラで森から民を護ることができるのは、アノールだけなのだ。
そのアノールでさえ、リリアが暴れればどうなるか分からない。
そして、意識がディアトーラに飛びそうになった時、声を掛けられた。
「ご気分が優れないのですか?」
給仕の一人がまだグラスを持っていないルタに気付き、カクテルグラスを差し出していた。その中身の色は薄い桜色をしていて、その中にやはりサクランボが沈められていた。甘い香りがふんわりと芳しい。そして、ルディが最後に振る舞われるこの飲み物には、アルコールが入っていると言っていた。
度数は低いもの……?
以前に教えてもらったカズの言葉を脳裏に浮かべながら、ルタはそのグラスを手に取った。
「ありがとう。昨年はサクランボに豊穣の女神が下りたのですね」
ルタは居住まいを正し、その給仕に礼を述べる。
「えぇ。ご主人様はどちらへ?」
ルタの言葉に素っ気ない返事を返した給仕を不思議に思いながら、何気なく遠くの方にいるルディを見遣ると、まだ確かにグラスを持っていないようだった。
「あの若芽色の背の者ですが……」
恰幅の良いカズと身丈のあるルディが二人で立っていると、意外と目立つのだ。
「あちらの……」
そして、なんだか嫌な予感が走った。給仕の声に喜色が現れたように思えたのだ。
「これは申し訳ありません。急いで持って参ります」
「急がなくても……」
給仕はルタの言葉を最後まで聞かずに、本当に慌てたようにして早足でルディの元へと歩いて行った。
急がなくても、まだグラスを持たない者も多い。
ルタはふと何かに引っかかりを覚えた。ミルタスの言葉が過ぎる。関係はないのかもしれないけれど『悪意にはお気を付けくださいませ』という、あの言葉。
エリツェリとカカオット、森の荒れよう。彼の者の身につけていた物。
ミルタスが謝った理由。
タミルとルディが話していた森の話。そして、リディアスの造船。
リリアが怒る理由。
すべてを繋げることはまだこじつけでしかない。たったこれだけの事柄で疑うことはできない。
しかし、ミルタスの言う『悪意』がどこへ向かうのか。
周りを見渡す。景色を見つめる。溶け込んでいるようで、全く馴染めない色を持つ、その給仕に視線を戻す。慣れない足取りで烏合の衆の中を彷徨いながら、どこか強迫観念すら感じられる使命感を持って進む歩み。それなのに、ぐらつく足元。
リディアスの給仕が、ここに選出された給仕が、あのような態度を取るわけがない。あのような作法で、人を避けていくわけがない。
彼は不器用に直進する。人の壁を無理矢理こじ開けようとすればするほど、時間はかかるものだ。
あの男が不器用に動くのならば、間に合うかもしれない。
自分のグラスを長椅子に残し、ルタは新しいグラスを持つ給仕の元へ、そして、ルディの元へと。
人の波の流れを読み間違えなければ、ルタの進む道の方が近くなる。
間に合って、とルタは願った。
その悪意がルディに向かうことだけは阻止したかった。
狙われるべきは次期領主ではなく、『魔女』でなければならない。
★
「ありがとう」
ルディはにこやかにそのグラスのステムに手を伸ばした。しかし、ルディがそのステムを摘まむことはなかった。ルタがルディよりも僅か早くにそのグラスを手に取ったのだ。そして、ルタが給仕だけが気付くように、彼を睨み付けた。
「ルタ?」
微かに震える給仕が頭を下げて、足早に逃げていく。
逃げるのね……。
その行動は、ルタにとって核心を突く行動になった。しかし、まだ今は根拠もなく、騒ぐわけにはいかない。リディアスが差し出すグラスを傷つけるわけにもいかない。
そして、手に取ったグラスを真っ直ぐに見つめ、自分の持つグラスを差し出すルタに、さすがのルディも不審に思った。
「どうしたの?」
「いえ、何も」
ルタは、考えるようにして、言葉の途中で息を整えた。
「やはり、同じ場所でお祝いした方がよろしいかと」
しかし、そう言うルタ自身が、リディアスの作り上げた景色からあぶれてしまった色のようだった。春分祭が始まって今までずっと、あぶれることなく景色に溶け込んでいたはずなのに、溶け込もうと一生懸命だったのに。その様子は、パステルカラーに統一されていた水彩画に落とされた赤黒い油絵の具に変わってしまっている。
「奥様?」
カズが心配の言葉をかける。
「いや、もう戻れとは言わないけど……」
「でしたら、こちらを」
気にしないと分からない程度ではある。しかし、ルタの声は切実で、焦りを帯びていた。乾杯が始まる。これからのリディアスの発展を祝うための短い祝詞が、始まる。誰もが景色からあぶれたルタの異変に気づきもせず、その祝詞に耳を傾け始める。
そこに集まる者にとって、ルタとルディのやりとりは、取るに足りないような些細なものだった。それよりも、祝杯が大事なのだ。
祝詞はリディア神に向けられたものであるが、春分祭の宴ではそれほど大がかりにはならない。しかし、その神聖さを知るルタが、その言葉に耳を傾けようとせず、ルディの持つグラスを自分のものと交換することに、懸命になっている。
それは、おかしいのだ。ルディはその一瞬の間に景色の変化を探した。何が変わったのか、何がルタを変えたのか。
あの給仕の持っていたグラス。逃げるようにして去って行った……男。
「こちらを」
リディアス国王が振る舞う祝い酒を、ディアトーラの代表としてのルディが飲まないわけにはいかない。そんなことをすれば、誰が何を言い出すか分からない。やりとりは気にしない烏合の衆だが、リディアスの祝い酒を飲まなかったという噂は、流したいのだ。だけど、ルディにはルタの言葉の真意が分からなかった。
「何が、あったの?」
そのルディの質問には答えずに、自分のグラスをさらにルディに押しつけた。
乾杯の音頭が取られる。
『では、リディアスの春に祝福と、ここに集まる者たちへの繁栄を願って』
「お急ぎください。間に合いませんわ」
ルタは真っ直ぐにルディを見つめる。こんな時は、何かあるのだ。しかし、ルタはルディに知らせない。いつもそうだ。
「あなたのグラスは、こちらなのです」
「理由を教えてよ」
ルディはルタに努めて穏やかに話しかける。しかし、嫌な予感しかなかった。
「ルカのためでもあるのです」
その言葉に微笑むルタに、ルディの意識がルカへと向かう。その一瞬だった。乾杯の声にルタのグラスが僅かに上に。そして、一点、どこかを見つめて、多くが見つめる先、壇上の進行役以外を見つめて。
「ルタっ。飲むなっ」
ルディのその声は、招待客の乾杯に応じる声に掻き消された。
ルタが一気にそのグラスを飲み干す。グラスが、二つ芝生に転がる。
ぐらりと。
ルディは、倒れ込んだルタを反射的に支えた。そして、咳き込むルタを抱きしめる。何が、起きたのか。それでもルディは景色を眺め続けた。
何かが起きたんだ? ……。ルタが何かに気付いたんだ……。
何が違う? どこが違う?
零れたグラスとあの給仕。
ルディの頭の中にその残滓がこべりついて離れない。
ルタの震えがルタを抱えるルディの腕にも伝わってくる。失ってしまうのだろうか。
そんなことないとルタを抱き寄せる。ルタの身体は苦しさに強ばって、小さくなって。喘ぐように首を掻きむしって。あまりにも苦しくて、ルディはそのルタの手を握りしめた。
ルタの爪の先が赤く染まっている。喉元が赤く滲んでいる。
……ルタの力が抜けていく。
ルタの見つめていた先。
背景がモノクロになる。そして、動く色の付いた何か。
その色と一瞬目が合った。気のせいかもしれないし、偶然かもしれない。
あの、給仕が混乱に乗じてジャスミンのアーチをくぐり抜ける。
医者でも呼びに行くのか。いや、あの場所で、今のこの状態が見えるはずがない。
今、誰もが注目するのが渦中の『ルタ』と『ルディ』のはずだった。囁かれる言葉がなんであれ、怯えて逃げる理由はない。
なぜ、逃げる?
そっか、逃げるんだ……。
……逃がすものか。














