婚礼の日に
婚礼当日はよく晴れた朝を迎えた。まだ誰も入らない教会は静かで、女神さまだけが朝陽のつくる光の柱の中で佇んでいた。残念なのはその様子を誰も知らないということかもしれない。
領主館では髪を結い上げたルタが、婚礼のための衣装に身を包み、鏡の前に座っていた。
なんだか不思議な気持ちがするのだ。まるで、鏡の中に映る自分が全くの別人のような気がしてならない。
これは『ルタ』という『ルタ』ではない誰かなんじゃないだろうか?
本当に魔女ラルーだったルタがここに輿入れなんてことあるのだろうか?
リディアスから贈られた白いドレスはセシルから譲られたもので、ディアトーラの気温を考えた少し厚手の布地が使われていた。デザインはディアトーラらしく大人しめだが、自然と流れるドレスの裾は遠くに見える三月山の裾野を彷彿させ、細かいダイヤが胸元とスカート部分にふんだんに鏤められている。そこは、さすがアサカナ王からの贈り物である。相手側を気遣いつつも、自身の権威を見せつけてくるのだ。
刺繍のヴェールは先日グラクオスで見つけたものだ。そのヴェールもドレスに遜色ないくらいに丁寧な手仕事で伸びゆく草花がヴェールと同系色の糸で刺繍されていた。そして、ティアラは女神さまからお借りしたもの。細やかな葉形が綿密に再現されており、その中には猪目模様も入ってあった。
ルタはそれが後から付け足された権威の象徴であるということも知っている。そもそものディアトーラに偶像崇拝はなかったのだから。そして、猪目の模様には魔除けの意味もある。ここに嫁ぐだろう花嫁にせめて魔女除けのご加護をといったところなのかもしれない。
そんな物を頭に載せることがあるなんて、ルタ自身が思いもしなかった。
ティアラを載せてくれたのは、セシルだった。
「ルタ様に私がこれを載せるなんて……」
セシルは瞳に涙を浮かべながらルタに抱きつきかけて、「あ、皺にしてしまっては大変」と遠慮した。そんなセシルを見ていると、ティアラにも大きな意味が根付いてきているのだと時間の経過を感じてしまう。
そして、次にやってきたのはアースだった。
「すっかり白がお似合いになられまして」
「あら、仕返しのつもりかしら?」
おそらくアースはルタの緊張をほぐしにやってきてくれたのだ。そして、心配をしに来てくれたのだ。
「そんなことありませんぞ。本当にお綺麗ですから。アノールも気にしておりましたが、実の父親を放っておくこともできますまい」
「そうですわね。喧嘩別れのようにここに婿入りしたからと言って、無碍にできる相手ではありませんわね」
ルタとアースは悪戯っ子のようにしてにやりとし合い、肩の力を抜いた。そして、ルタはそのアースの微笑みの後、彼がここへ来た本題を追求した。
「お聞きになられましたのね」
ルタの言葉にアースは焦ることなく答える。
「えぇ、魔女を討つ銀の剣をリディアスへ献上されると」
「わたくしが使うことはもうありませんし、それが一番わたくしの身の潔白を証明できますでしょう?」
必要のないものは、持っていても仕方がない。そして、それはルタが内容を書き換え、本当の意味でこの世界の聖剣となったもの。
「お気持ちは……」
とアースが言いかけて、ルタがそれを阻止した。
「心配いりませんわ。すべてわたくし自身が決めたことです」
アースが何を心配してルタの気持ちを尋ねたのかははっきりしない。
銀の剣についてなのか、それとも、ここに今いることなのか。しかし、今ここにいることも、ルタが自分自身で決めたこと。その言葉でアースの心配を拭えたのかどうか、ルタには測りかねたが、アースは「では、年寄りも準備を整えて参りましょう」と立ち上がり、一礼して扉を閉めて出て行った。
静かな時間が続いていた。それはルタにとって、まるで懺悔のような時間でもあり、未来を考える時間でもあった。
この世界を裏切るような行為をしたくせに、銀の剣が護る世界をこの世界になるように書き換えた。それに後悔はない。最悪が起きたとしても、広がる世界がここであればいい。無駄なことだとは思うし、かつての主人である魔女を裏切っているつもりもない。
彼女がもし失敗したとしても、ここが残るようにしたいと思うのは、わがままなことなのだろうか?
この世界には、ルタにとって失いたくない存在がたくさんあるのだから。それをわがままだとは言いたくない。
しかし、もし今もルタが魔女の『ラルー』だったのならば……なんと答えるだろう?
ワカバはどんな表情を浮かべるのだろう。
それなのに、その沈黙を破った者がいた。騒がしく廊下を走る音がする。そして、扉も叩かずにルディが部屋に入ってきたのだ。
「間に合ったぁ」
目を見開いたルタの瞳に映ったのはやはり婚礼服に着替えているルディだった。ルディの服装はときわの森と同じ緑の上下に、白いビロードのマント。首元と裾の方には金糸で花唐草の刺繍がなされている。そのマントを止めてある大きいブローチにはクロノプス家の家紋のムカデが彫られてある。
しかし、せっかく立派な格好になっていても、式直前の花嫁の控える部屋にノックもせずに入ってきて、息を切らしていては、格好も何もあったものじゃない。
「ルディ? どうしましたの? 何をそんなに急いで……」
「わぁ、ルタ様、ほんとにきれい。あのね、ちょっと一緒に来て欲しいところがあって……」
そう言うが早いか、ルディはルタの手を引っ張って走り出していた。でも、着慣れないドレスにルタは思うように動けない。空いた片手でドレスを摘まんではみるが、やっと走っている状態なのだ。
「もう少しゆっくりおねがいしますわ。どこかに引っ掛けては大変ですし」
「あ、ごめん。あ、そうだ」
ルディが浮かべたその悪戯坊主の表情にルタは良からぬ過去を思い出す。また、何か唐突に理解できないことが起きるのかもしれない。そう身構えた時には既にルタの足が地に着いていなかった。
「一度こうやってみたかったんだ」
ルタを横抱きにして、子どものように嬉しそうにするルディに、ルタが諦めたように、それでもまだ引きずっているドレスの先を手繰り寄せた。次に見舞われるだろう惨事をできるだけ防ぎたかったのだ。
「これでは、どちらが年長か分かりませんわ」
「人間としては僕の方が年長だから、いいの、これで」
生きている年数はもちろんルタが二千年ほど上になるが、人間として動き出したルタの年齢はルディよりも六つも若い。ルディが年長であるというのは間違っていない。人間とは不思議なことを行動の理由に持ち出す者だから、ルタはそれも仕方がないと思うようになった。
「時間がないから、ちょっと急ぐね」
どこへ行くのかも伝えずに、ルディは館の外へ。そして、涸れた噴水を通り過ぎ、あの薔薇の木の下へと。あの赤い薔薇の木の麓。そっと下ろされる。
開いたんだ……。
「ひとつ咲きましたのね」
「うん、……ルタ…様が咲かせてくれた薔薇。早く見せたくて」
綺麗に一つ。たった一つだけれど誇り高く咲き誇る一つ。周りの蕾も少しずつ大きくなってきている。満開にはまだ少し遠いのかもしれないが、見つめるものは同じもの。
だけど、ルディが言葉を零す。
「あのね、本当にいいの?」
「何がです?」
視線をルディに移し、ルタが見上げた彼はまだ薔薇の蕾を見つめていた。
「ディアトーラ領主夫人って贅沢もさせてあげられないし、自由もないし、今ならまだ」
女神様に誓いを立ててない今なら。
「そんなことを考えてましたの?」
「だって、ルタ様きれいだし、頭もいいし、そこら辺の騎士くらいなら勝てるわけだし。ここにこだわらなくても生きていけるわけだし」
愛してもいない男と一緒になるわけだし。
「ルディ、あのね」
「僕の好きを押し付けてるだけだったらって思うと」
申し訳なく思う気持ちも……。それよりも苦しくて……なぜか、怖い。
「ルディ」
力強く名前を呼ばれ、ルディの言葉が途切れた。何が起きたのか分からなかった。僅かに重みを感じた両腕。そして、ふわりとしたものがルディの唇に触れて、そっと、優しく離れる。
正面にはルタがいた。途端にルディの頬が紅くなり熱を帯びた。
「多分、わたくしもあなたのことが好きです。きっと同じ好きなのだと思います。だから、このままでいいのですよ。これはわたくしの意志でもあるのですから」
目頭が熱くなる。嬉しいのか恥ずかしいのかよく分からない。だけど、とても格好悪い。そんな気がする。だから、見られたくない。そんなよく分からないちっぽけなプライドがルディにだってあるのだ。
小さなままだと思われたくないのだ。
泣き顔を見られたくなくて、ルディがルタを抱きしめながら泣くのを堪えるがどうしても涙が流れてしまう。
気付かれたくないのに優しく背中を擦るルタを感じる。
そう言えば幼い時、父に叱られて森に逃げ込んで、ルタ様に会って。
ルディと声をかけられたら急に不安になって、抱きついたルタ様のお腹を借りて泣いてたことあったな。あれ、なんで叱られたんだっけ?
あの頃は頭を撫でられてたけど。
あっ。
そっか、ルタ様届かないんだ。
そっか……。
そう思って力を抜く。ルディはふんわりとその頭をルタの肩に預ける。
ルタの掌がルディの頭に優しく載せられた。
「落ち着きまして?」
悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。愛されていないのではないんだ。
そう思いながらも、恥ずかしくなってきた気持ちを紛らわせようとルタに尋ねる。
「ねぇ、ルタ? ターシャの本何冊読んだの?」
「10冊ほどですわ。時間がなくてあまり読めませんでしたから、相手のことを考えて思い悩む彼らの行動とわたくし達がどう違うのか、結局よく分かりませんでした。ですので、同じだと思ったのですが。違うのでしょうか?」
そっか。
ディアトーラでの基本は『求めてはならない』ルディはその教えを脳裏に浮かべる。自分の理想には自分が追いつかないことだってある。相手に求めても叶わないこともある。求めすぎて見失うよりも進む道さえ見えていればいいのかもしれない。
ルタだって自分の分からないものに決着をつけたんだから。
それを求めても何かを失うだけなのかもしれない。
「ルタはやっぱりすごいよ」
ルタは言葉の意味が掴めなくて疑問に思うが、それ以上聞かなかった。やっとルディが自然にルタと呼べるようになったのだから。
病めるときも健やかなるときも。
教会の女神様がその手に彼らの願いを掬い上げ、変わらぬ愛をその掌の中で温めていてくださるから。
きっと何も心配いらない。
カズより。
「また惚気かよ。全く。で、今日は何なんだよ?」
「はいはい、おめでとう。じゃあ今日は先輩として祝酒を贈ってやるよ」
「次期領主殿、ご結婚おめでとうございます。かんぱ〜い」
ルディがグラスをあげるよりも早く飲みだしたカズは本当は涙が出そうなくらいに喜んでいるのだった。
「婚礼を前に」【了】
全くみんな素直じゃないなぁ。














