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大正桜恋譚―恋と土俵と古書店―  作者: 明石竜


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第七話 避難所にて 失われたもの 二人の決断

目を覚ますと、見知らぬ天井だった。

「気がついたか」

父の声がした。見回すと、そこは雷電部屋の土俵場だった。土俵の周りに、多くの人々が避難していた。

「ここは...」

「鬼丸が運んでくれた。本郷一帯が火事でな。ここまで避難してきた」

私の足には包帯が巻かれていた。痛むが、骨は折れていないようだ。

「鬼丸さんは?」

「外で消火活動を手伝っている。稽古中に地震が起きて、真っ先に本郷へ駆けつけてくれたそうだ」

父の目に涙が光っていた。

「大した男だよ、あいつは。自分の命も顧みず、お前を救ってくれた」

外から、鬼丸さんの声が聞こえた。

「もっと水を! この辺りに人が取り残されています!」

彼は一睡もせず、救助活動を続けていた。

夜になっても、火災は収まらなかった。

東京中が燃えているようだった。赤い空が、終わらない悪夢を照らし出していた。

翌日、ようやく鬼丸さんが戻ってきた。

全身煤だらけで、服はボロボロ。それでも、彼の目には力があった。

「千鶴さん、ご無事で...」

「鬼丸さん、ありがとうございます」

私は涙が止まらなかった。

「あなたがいなかったら、私は...」

「良かった。本当に良かった」

鬼丸さんが私の手を握った。その手は、煤と血で汚れていたが、私には世界で一番美しい手に見えた。



関東大震災。

後で聞けば、マグニチュード7.9の大地震だったという。東京は壊滅的な被害を受け、十万人以上が亡くなったという。

翠雲堂も、倒壊は免れたがのちの火災で全焼した。

父の一生をかけて集めた古書も、私たちが愛した店も、全て灰になった。

鬼丸さんの祖父の日記も、谷風の錦絵も、私たちが苦労して作った本の原稿も、全て。

「蔵も...」

父が呆然と呟いた。

「曾祖父の代から守ってきた蔵も、燃えてしまった」

私たちには、もう何も残っていなかった。

避難所となった雷電部屋で、私は呆然としていた。

「千鶴さん」

鬼丸さんが隣に座った。顔には火傷の痕があった。

「店を...全部、失ってしまいました」

「いいえ」

鬼丸さんは首を横に振った。

「大切なものは失っていません。千鶴さんも、お父様も無事だった。それが一番大切なことです」

「でも、鬼丸さんのお祖父様の日記も...」

「ここにあります」

鬼丸さんは自分の頭を指さした。

「全部、暗記していました。いつか書き写そうと思って。だから大丈夫です」

「一月場所は...横綱は...」

「相撲どころではありません。来年の一月場所は中止になるでしょう。でも、それでいいんです。もっと大切なことに気づきました」

「大切なこと?」

「千鶴さん、私は相撲で伝統を守ると言いました。でも本当に守るべきは、伝統そのものじゃない。それを愛する人たちの心です。そして、その人たち自身です」

鬼丸さんの大きな手が、私の手を包んだ。


九月三日。鬼丸さんが部屋の親方と話しているのが見えた。

何か深刻な話をしているようだった。

やがて、鬼丸さんが私たちのところへ来た。

「千鶴さん、お父様。お話があります」

「それだけではありません」

鬼丸さんは深呼吸をした。

「親方が、わたしに廃業を勧めています」

「何ですって?」

私は声を上げた。

「なぜです? 鬼丸さんは横綱も目前なのに」

「部屋の力士たちの多くが、家族を亡くしました。わたし自身も、実家の両親と連絡が取れません。親方は言うんです。今は相撲よりも、家族を、生き残った人々を支えることが大切だと」

鬼丸さんの声が震えた。

「わたしも、そう思います。でも...」

「でも?」

「横綱になる。それがわたしの夢でした。祖父の夢でもあった。それを諦めるのは...」

私は鬼丸さんの手を取った。

「鬼丸さん、私はあなたに横綱になってほしい。でも、それ以上に、あなたに後悔してほしくない」

「後悔...」

「今、この瞬間、あなたが一番大切だと思うことをしてください。それが相撲を続けることなら、私は応援します。廃業して人々を助けることなら、それも応援します」

父も頷いた。

「千鶴の言う通りだ。鬼丸さん、あなたの心に従いなさい」

鬼丸さんは長い間、黙っていた。

やがて、顔を上げた。

「わたしは、相撲を続けます」

「本当に?」

「はい。でも、それは自分のためだけではありません」

鬼丸さんの目に、強い光が宿った。

「この震災で、多くの人が希望を失っています。そんな時だからこそ、相撲が必要なんです。土俵の上で戦う姿を見せることで、人々に勇気を与えられるかもしれない」

「鬼丸さん...」

「相撲は日本の伝統文化です。どんなに辛い時でも、それを絶やしてはいけない。私は土俵の上で、復興への希望を示したい」

その言葉に、私の胸が熱くなった。

「では、私たちも頑張ります」

「え?」

「新しい翠雲堂を作ります。本を、文化を、守り続けます。鬼丸さんが土俵で戦うなら、私たちは本で戦います」

父も力強く頷いた。

「そうだ。まだ終わりじゃない。ここから始めればいい」

三人は、固く手を握り合った。

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