第六話 九月一日 お昼前
九月に入り、一日は土曜日。店は午前中で閉める予定だった。鬼丸さんは次の本場所に向けて、今日も稽古に励んでいると聞いていた。
「千鶴、昼過ぎたら蔵の整理を手伝ってくれ」
「はい」
昼少し前、私は二階で帳簿の整理をしていた。
新しく仕入れた古書の目録を作っていると、突然、激しい揺れが襲った。
立っていられないほどの揺れ。本棚が倒れ、花瓶が落ちて割れる音。悲鳴を上げる間もなく、私は床に投げ出された。
「千鶴! 千鶴!」
父の声が聞こえたが、返事もできない。揺れは何度も何度も襲ってきた。
地震だ。これまで経験したことのない、激しい地震だ。
どれくらい経ったのか。ようやく揺れが収まった時、私は家具の下敷きになっていた。
「父さん...」
かすれた声で呼ぶと、遠くから父の声が聞こえた。
「千鶴、今助ける! 動くな!」
足が挟まって動けない。埃で息が苦しい。意識が遠のいていく。
どこからか、火の手が上がり始めたようだった。煙の匂いがする。
このまま、ここで死ぬのだろうか。
鬼丸さん...
その時だった。
「千鶴さん! 千鶴さん!」
聞き覚えのある声。鬼丸さんの声だ。
「ここです! 二階に!」
父が叫んだ。
重い足音が階段を駆け上がってくる。そして、私の上の家具が持ち上げられた。
「千鶴さん!」
鬼丸さんの顔が目の前にあった。汗だらけで、着物は破れ、額から血を流している。
「鬼丸...さん...稽古は...」
「そんなこと、どうでもいい!」
鬼丸さんは私を抱き上げた。痛みが走ったが、彼の腕の中は温かかった。
「お父様も! 早く外へ!」
鬼丸さんの声に押されて、父も足を引きずりながら階段を降りた。
店の外に出ると、街は既に地獄のような光景だった。
あちこちで火の手が上がり、人々が逃げ惑っている。建物が倒壊し、道路が亀裂だらけになっている。
「雷電部屋へ避難しましょう! 両国なら火の手もまだ遠い!」
鬼丸さんは私を抱いたまま、父を促して走り始めた。
途中、倒壊した家屋の下敷きになっている人々を何人も見た。助けを求める声が、あちこちから聞こえる。
「鬼丸さん、あの人たちを...」
「今は、千鶴さんたちを安全な場所へ。それからです」
鬼丸さんの声は、いつになく厳しかった。
両国への道のりは、普段なら三十分ほどだ。でも、この日は一時間以上かかった。
火災を避け、崩れた建物を迂回し、ようやく雷電部屋にたどり着いた。
その腕の中で、私は意識を失った。




