<間>妖祓の羨望
「ようっ、和泉。もう来ているのか? 早いな」
午前八時半。予備校の自習室で、分厚い参考書を開いていた和泉朔夜は、間延びした呼び声により、そのページから目を放す。
片手を挙げ、ずんずんと歩んで来るのは、米倉聖司。幼馴染のクラスメートであり、悪友である。偶然にも同じ予備校、コースを選択し、これまた等しい学力だったためか、彼と同じクラスに配属された。
幼馴染伝いで関わっているせいか、彼からよく話し掛けられる。当人のことは嫌いではないが、無暗に人の領域に踏み込んでくる型は得意でもない。
どことなく翔と型が似ているが、彼は付き合いが長いため、こちらの都合を考えずに踏み込んできても、適当に受け流すことができる。
されど、彼とは浅い仲。友人というより、知人に分類されるため、いまいち、どう接して良いか分からない。
「おはよう」
当たり障りない挨拶で、その場を凌ぐ。
「なんだよ。女はいないのか」
色気のない教室だ。米倉が落胆した。受け答えに困る応答である。
こんな米倉だが、成績は朔夜よりも上である。特に理数が得意で、彼に数学の問題を解かせると、右に出るものはいない。朔夜が解くと時間が掛かってしまう問題も、彼に解かせると数分で解答する。
反面、英語が不得意らしく、それに危機感を抱いて、予備校に通い始めたらしい。だが、成績は朔夜とあまり変わらない。嫌味な奴である。
彼は県外の有名国立大学を受けるべく、予備校に通っているそうだ。朔夜もできることなら県外に出たいのだが、家の事情により、それは無理だろうと諦めを抱いていた。
兄達も県外を断念し、地元の大学を受験している。すべては妖祓の伝統を守るために。
(僕は妖祓じゃなくて公務員になりたいんだけどな)
安定した職に就き、安定した生活と家庭を持ちたい。それが朔夜の密かな夢である。
生まれた時から数珠、呪符、お経といった法具ばかりに触れていた朔夜は、人並みの生活に憧れていた。妖など気にせずに、平穏に毎日を過ごせたら、どれほど楽しいだろう。
だから、自分の日常を乱す、妖は好きではなかった。妖がいるばっかりに、己の進路は最初から決められ、好きな大学も選べず、その職につくしかない。活躍したところで誰かに感謝されるわけでもなく、評価されることもない。暗躍するばかりの妖祓に嫌気が差す。
だったら、妖などいなくなってしまえばいい。それが無理なら、人里知られぬ土地で、おとなしくてくれたらいいのに。人の世界に潜む妖が小憎たらしい。妖がいなくなれば、自分達の職は廃業。晴れて好きな道を選べる。
同じ立場の飛鳥ならきっと、自分の窮屈な気持ちを分かってくれるだろう。
「朝から湿気た顔してんなぁ。三角関係に、新たな進展でもあったわけ?」
翳りある感情を抱いていると、米倉が隣の席を陣取り、ずかずかと人のプライベートに踏み込んでくる。あからさま不快な顔を作る朔夜は、「勝手に三角関係にしないでもらえるかい?」と言って、不機嫌に鼻を鳴らす。
何を言っているのだ。米倉は大きく笑声を上げ、立派な三角関係を築いているではないかと、人差し指で朔夜の胸を突いてくる。
「楢崎に好意を寄せられているお前。その楢崎に恋している南条。無関心のお前。立派なトライアングルだろ? で、どうなっているんだ? 楢崎とついに付き合い始めたか」
何がついに、だろうか。
朔夜は、飛鳥をそういう眼で見たことはない。翔は幼少から仄かな恋心を寄せ、彼女を異性と見ているが、自分はどちらかと言えば、職業柄の相棒である。無論、彼女が好意を寄せていることは知っていた。
それについて、物申すつもりはない。しかし、応える気持ちもない。
今は、自分の決められた道をどう進んでいくか、そればかりが頭にある。ゆえに仮に翔と飛鳥が付き合い始めたら、祝福するのだろう。
いや、そうなるべきだ。それが一番しっくりくる関係であろう。とはいえ、本当にそうなったら、自分は受け入れられるだろうか。朔夜は不安に駆られた。
「なんだ。進展なしか」
薄い反応をどう捉えたのか、米倉が面白くなさそうに頬杖をつく。
「お前等、相変わらずの関係なんだな。そろそろ、今の関係を壊したりする、面白い話ねぇの?」
「君の期待に応えられなくて申し訳ないけど、僕は今の関係で十分満足しているんだ。三角関係なんてまどろっこしい関係にはならないよ」
B級恋愛ドラマを観たいなら、余所を当たってくれ。軽くあしらうと、米倉は、どこか納得したように頷いた。自分から期待を寄せておいて、進展はないだろうと断言する。
「南条の奴、楢崎を諦めてやがるからな」
訝しげな眼を送る朔夜に気付かない彼は、また合コンに誘ってやろうと肩を竦める。
そして、携帯を取り出し、カレンダーで予定を確かめていた。翔を誘う気満々のようだ。
それに嘲笑してしまう。
合コンなんぞ、幼馴染が行くものか。どう誘われようと最後は、飛鳥を取る諦めの悪い男なのだから。素っ気無く告げると、米倉の方が驚愕を露わにした。
「お前、南条から聞いてないのかよ。てっきり、話していると思ったんだけど」
「何の話だい?」
「合コンの話だよ。あいつ、最近積極的に参加するんだぜ」
冗談だろ。朔夜が興味無さそうに返事するものの、大マジだと彼は強く返事する。
「南条から合コンに行きたいって言い始めたんだ。前は誘っても、行かないの一点張りだったのに、最近は声を掛けたら必ず来てくれる。しかも、合コンじゃ人気者なんだぜ」
普段は、一にも二にも幼馴染を大切にするため、同級生の女子達から、異性として見られることは少ない。寧ろ、幼馴染に対する粘着質な一面に引かれることが多い。
だが、ここ最近の翔は違う。
持ち前の面倒見の良さと、場を盛り上げる明るさが、合コンに参加した女子の間でウケている。
他校生はもちろん、同校生の女子も、やや翔を見直したのか、連絡先を交換していた。米倉は合コンの様子を、おおっぴらに教えてくれる。
「幼馴染病が出てない、あいつは超人気だぜ。空気が読めるから、女子達の気持ちを察して、飲み物を奢ったり、休む場所を探したりするわけよ。おかげで、南条狙いの女子達が、俺に根掘り葉掘り、あいつのことを聞いてくる。俺のことにはキョーミなし! 悲しいぜ」
「え、本当にショウが?」
「いっちゃん驚いたのは、女子達の質問に答えた時。『南条くんって好きな子いるの?』『いたら、此処にはいないよ』キャー! あの南条クンがいない発言しちゃうなんて!」
裏声を使い、悪ノリを見せる米倉が、諸手をあげた。すべて真実だと補足し、なんなら合コンの時の写真を見せても良いと告げてくる。
そんなことを言われてしまえば。信じる他ない。天変地異の前触れではないだろうか。あの翔が、他の女の子に目を向け、飛鳥から離れようとしているなんて。
「ショウ。頭でもぶつけたんじゃないか。なんで、いきなり」
大袈裟だと米倉は返す。寧ろ、それが普通なのだと彼は言う。
何年も何年も相手を一途に思ったところで、反応がないのならば虚しくなるだけ。潔く相手を変えた方が自分のためになるのだ。
恋バナを聞いていると、何年越しの恋というのもあるが、それが実る可能性など一握り。大半は華々しい過去として終わる。翔もその一人になっただけだと、米倉。
「俺からしてみれば、なんであんなにも楢崎に執着するのか、意味が分かんなかったぜ。見込みもない相手を思い続けたところで、虚しいだけじゃん」
返す言葉もない。朔夜は眉を顰める。
「和泉、お前にも言えることだぞ。なんであいつは、お前や楢崎に執着しているんだ?」
「それは幼馴染だからだろう」
当たり前のように返答すると、答えになっていないと返される。
「俺にも幼馴染がいるけど、南条ほどお前等に固執してねぇって。高校まで三人一緒とか、そうある話でもねーぜ。珍しいから拝んでやる」
南無、と合掌する米倉は瞑っていた目を開け、小さく苦笑いを零した。
「南条は、お前らを本当に大切にしているよな。大事にし過ぎている」
悪友はいつもそうだ。幼馴染を中心として考え、馬鹿みたいに二人を想い続ける。大切だから関係を壊したくない。壊さないようにするには、ああ、どうすればいいか。そうだ、常に傍にいればいい。それが一番の方法だと思い込み、傍にいたがる。米倉には、そのように見えた。
話を聞く分にはうざったい性格だと思うが、翔は翔で幼馴染のことを想っているのだろう。離れ離れになることで、関係が壊れると思っているのかもしれない。そう思わせる何かが、幼馴染にあるのかもしれない。米倉は朔夜を指差して揶揄した。
どきりと鼓動を高鳴らせる朔夜に気付いているのか、気付いていないのか、彼は頭の後ろで腕を組み、口角を持ち上げる。
「ま、俺はこれで良いと思っている。正直、安心したんだ」
からかう分にはつまらなくなるが、翔が幼馴染以外に目を向けるようになって、どこかホッとしている。この機に他の女子と、恋に落ち、彼らしく振る舞って欲しいものだ。これは悪友なりの、優しさであった。
「知ってるか? あいつ、お前達がいないところでも、ちゃんと笑っていられるんだぜ。幼馴染病も、あいつ次第で、いずれ治るよ」
「君に、僕等の何が分かるの?」
つい、毒づいてしまう。
米倉はきょとん顔で、分かるわけがないとおどけた。けれど傍から見て、これでいいと思う自分がいる。その旨を、朔夜に伝えた。
「この先、お前等があいつと、ずっと一緒にいるなんて保証はない。それはあいつも同じこと。それじゃあ、南条が可哀想じゃんかよ。お前等はあいつがいなくても、普通に過ごせて、あいつは途方に暮れて前にも後ろにも進めないなんて」
「そんなこと」
「和泉、お前が一番知ってるだろう。南条の性格はさ。なんで、今まで放っておいたんだ。あいつが、ばかで真っ直ぐなのは、誰でもないお前と楢崎が知っていることだろう」
鋭い指摘が、反論の言葉を奪う。なにも言えない。
「俺は思っていたんだ。もし、お前達がいなくなったら、南条はどうなるんだろう。幼馴染病を患ったまま、生きていくつもりかって。だから、最近あいつは落ち込んでたんじゃねーの?」
米倉も気付いていた。翔の心境の変化と、彼らしくない一面と、落ち込む心を。知っていて、なおも悪友として、そっとしておいたのだ。
「合コンに来てた時の南条は、俺達と変わりなく笑っていたよ」
それこそ、幼馴染がいなくても。
「南条が誰を想ってもいいじゃねーかよ。楢崎以外の女に惚れたところで、祝福してやればいいじゃん。お前達ばっかに執着したところで、あいつは前に進めねーよ」
そんなの、さみしい人生だ。自分なら真似したくない。米倉は率直に意見し、「お前も関係に執着するのはやめとけよ」と、何かを見越したように釘を刺す。
「それとも。和泉、お前は南条に変わって欲しくないんじゃないか? いつまでも、幼馴染病を患って欲しい。そんなツラしてやがる」
「何を根拠に」
「そんなのねーよ。ただ、お前、合コンの話を出した途端、妙に焦ったから、変わって欲しくねーのかなって思っただけ」
言い返したいのに何も返せない。口を閉ざす朔夜を無視して、そろそろ勉強をしようと、米倉が教科書を取り出す。
「明日から新学期だな。南条に合コンの時の写真を渡さねーと」
学校が楽しみだと米倉は笑う。予備校ほど窮屈ではないし、同級生と和気藹々しゃべることができる。ここでは、会話すら神経を尖らさなければいけないのだから気鬱だ、と彼。
「あ、そうだ。なあ和泉。お前は合コンに興味ねーの?」
「……君。まさか、僕を誘うつもりじゃ」
今し方、半ば言い合いのような気まずい空気が流れていたというのに、この男はもう散らしてくる。
「女子達が新しい面子を欲しがってるんだ。なあ、南条も参加し始めたことだし、お前も来ようぜ。和泉みたいな硬派な男が来たら、女子達もぜってぇ釣れる」
要は客寄せならぬ、女子寄せになれと?
「そういうことばっかり思うから、女子にモテないんじゃない?」
「まあまあ。そう言わずに。ジュースでも、ハンバーガーでも奢ってやるからさ」
よろしく頼むよ。片目を瞑ってくる米倉に、勝手な男だと朔夜は心底呆れてしまった。
予備校で実施されるテストを終える頃には、すっかり太陽が真上を過ぎる。
遅めの昼食を売店で購入し、それを予備校で食べ終えた朔夜は、軽い足取りでバス停へ向かっていた。四月に入り、マフラーを外すことができたものの、まだまだコートは手放せない。
(今夜は冷えるかな? 冷えたら嫌だな)
花見どころではなくなる。朔夜は街樹木に目を向ける。
若過ぎる葉を見るや、花見は四月中旬が良いのではないのかと切に思った。
まさか、あの幼馴染が、花見をしたいと言い出すなんて。花を見ても、あまり感動を覚えない朔夜は、楽しめるだろうかと不安を抱く。否、二人がいるから大丈夫だろうと高を括った。
あの二人となら、つまらない出来事でも楽しいと思える。
何故なら二人の性格が、そういう雰囲気を作るのに長けているからだ。自分にはない、持ち前の明るさと、対人と気さくに渡り合える饒舌さに羨望を抱いてしまう。
何事にも自分の歩調で動く朔夜は、積極的に友人を作る型ではない。翔や飛鳥とは違い、友人の領域は狭く深いのだ。幼少の頃は誰彼に声を掛ける型だったようだが、成長するにつれて、腰の重たい人間になってしまった。
それが自分の欠点だと朔夜は気付いている。
二人のように自分を表に出せる性格でもなければ、他者と素直に盛り上がる性格でもない。本当は素直に盛り上がって感情を表に出したいのだが、キャラではないと自分の中で線引きしてしまい、結局のところ鬱々とした感情を抱いてしまうのだ。
自分と一緒にいて、幼馴染達は楽しいだろうか?
何も言わず、傍にいてくれるため、きっと必要としてくれているのだろうが、不安は尽きない。
二人が他愛もない話に盛り上がって笑声を上げている瞬間を目の当たりにすると、底知らぬ疎外感を抱いてしまう。自分もそこで笑いたいのに、盛り上がれない性格が邪魔してしまうのだ。
たくさんの友人を作る幼馴染達と、己を比較した場合、自分はコミ障なのではと思い悩むこともある。
(もしショウと飛鳥が付き合い始めたら、僕はこの性格を今以上に嫌悪するんだろうな)
翔の片思いを応援している反面、飛鳥と付き合って欲しくない、なんて意地の悪い気持ちが胸を占める。一途な彼は、誰よりも飛鳥を優先するだろうから。
同じように、飛鳥が朔夜から翔に乗りかえたら、やはり祝福してやりたい反面、翔に振り向いて欲しくない、性悪な己がいた。恋愛に憧れる彼女は、きっと彼氏を優先するだろうから。
二人の優先順位は、きっと自分に大きな疎外感を与えることだろう。飛鳥は朔夜を、翔は飛鳥を、朔夜は誰も見ないことで関係の均衡が取れている。この関係は崩れて欲しくない。
(米倉の言う通りか)
人知れず溜息をついてしまう。焦燥感を振り払うように頭部を掻き、自分こそ幼馴染に執着しているのかもしれない、と呻いた。
傍から見れば、誰より幼馴染の関係に執着しているのは翔である。
当時、引っ越してきたばかりの彼は通っている幼稚園に馴染めず、一人で過ごすことが多かったらしい。
そこに自分が声を掛け、彼は自分達の仲間に入ったと親が言っていた。殆ど記憶にないが、実際のところ翔は一人でいることを毛嫌い、自分達と引っ付いて行動することを好む。幼馴染達と共に何かしたい気持ちが人三倍強い奴で、何かしら率先して遊ぼうと声掛けしていた。
時期によっては疎ましいと思ったことはあれど、何処かで安堵する自分がいたのも確かである。必要とされていると感じられたから。
いつまでもこの関係が続いて欲しいと思う自分こそ、関係に執着しているのだ。
(……ショウが変わり始めている。僕はそれに、焦りを感じている)
彼の指摘通り、朔夜は変わって欲しくないと願っている。ひとりが変わってしまえば、この関係は崩れてしまうのだから。
「勉強のしすぎかな」
気鬱な感情を吐き出すように、溜息を零す。予備校で缶詰になっていたせいで、鬱になっているのかもしれない。顔を顰めてしまう。
コートのポケットに押し込んでいる、携帯が震えた。朔夜の携帯は旧型で、所謂ガラケーである。これを使う高校生も、今どき珍しいだろう。
LINEだろうか。朔夜は気持ちを切り替え、そのメッセージを確認した。
相手は飛鳥。帰宅したかどうかを尋ねてくる、可愛らしいスタンプに頬を崩してしまう。今から帰宅する旨を伝えると、『待ち合わせ場所まで一緒に行こう!』と、彼女。
曰く“例の件”で、彼女の父親や祖母と共に、自分の家に来ると言うのだ。用件を済ませて待ち合わせ場所に行こうと誘ってくる彼女に、承諾の返事をし、やって来るバスに乗り込んだ。
早足で帰宅すると、妖祓の先輩である母親から、すぐに座敷へ赴くように伝えられる。
コートと鞄を居間の四隅に放置されている座椅子に投げると、学ランのポケットに潜めている数珠を、確かめるように右の手を突っ込み、ぎしぎしと軋む古い廊下を過ぎる。
台所の奥へ進むと、まるで隔離されているかのように、部屋が三つ設けられている。一つは父の書斎部屋、一つは客間、そして最後は専用の座敷。
その座敷に上がれる者は少なく、幼馴染の片割れですら、足を運ばせたことはない。幼少の頃、遊びに来た一般人の彼が興味本位で部屋を覗き込もうとし、それを全力で止めた記憶がある。興味を持つのも無理もない。その襖の枠には二枚の呪符が貼ってあり、異様な空気を漂わせているのだから。
襖の前に立った朔夜は中にいるであろう、父や祖父に声を掛け、引き手に手を伸ばす。
開けると、畳部屋が顔を出した。そこに机や家具はなく、畳のみが部屋を支配している。思ったとおり、中には長の月彦や父の朔の姿が見受けられる。メールをくれた飛鳥や彼女の父、時貞の姿も目に飛び込んできた。
彼等は揃って部屋の押入れを覗き込んでいる。父に声を掛けて、傍らに座ると、「帰ったか」と、軽い挨拶と共に前方を指差した。
ゆるやかに視線を流す。通常の狐よりも三回り大きい、神々しい体毛を持つ白狐が、そこには押し込められていた。
二段層になっている下段に白狐は身を置き、ただただ瞼を下ろしている。両の前後ろ足には呪符が貼られ、更に押入れの枠にも厳重に呪符を何枚も重ね貼りされていた。
それはまるで、囚人のよう。
無様で哀れな姿だ。冷たく妖を見つめる朔夜を余所に、父の朔は重い溜息をついた。
「今は眠りにつき、大人しくしていますが、起きると狂ったように暴れます」
当主の月彦に、事を報告した。
「桁違いの妖力を持つ白狐が暴れるものですから、魔封の呪符が何度剥がれそうになったか。起きている間は、此処を出ようと休みなく暴れるのです。食事も水も口にしませ
ん」
白狐の体に着目すると、美しい毛並みが乱れている。目で分かるほどの乱れようだ。この調子だと、体毛の下は傷だらけかもしれない。
往生際が悪いのか、はたまたオツムが悪いのか分からないが、目覚めた白狐はどうしても此処を出たくて仕方がないようだ。人間に捕縛されたことが、そんなにも屈辱だったのだろうか?
これが話に聞く、南の頭領ならば、妖の頭領は所詮この程度の器なのだと、見切ってしまう。朔夜は、興味なさげに眠る白狐を観察し続けた。
一報を耳にした月彦はふむ、と唸り、顎に手を掛け、ヒゲの感触を確かめる。
「瘴気の問題があるゆえ、万が一に備えて、捕縛したが……やはり瘴気に当てられたか」
基本、妖狐は賢い。己の置かれた状況下も呑めずに、暴れ狂う愚行など殆どない。
瘴気に当てられた白狐が、人の世界で暴れぬよう捕縛を試みたが、この判断は正しかったようだ。
月彦は、紅緒に視線を流す。
軽く頷く楢崎の当主は、眠っている白狐を十二分に確認して押入れに手を入れた。呪符は妖力を持つ妖に反応し、侵入や脱走を拒むが、霊力を持つ人間には反応しない。そのため、容易に手を入れることができる。
妖狐の頭に手を置き、柔らかな毛を撫で上げる。愛撫しているわけではない。紅緒は相手の体内に宿る妖力を、しかと確かめているのだ。
「宝珠の御魂は、確実にこの妖の体に宿っているでしょう」
紅緒が手を引き、他の妖祓に視線を配る。触るだけで妖力の異常な熱を感じ取ることができると紅緒。目を細め、皺だらけの右の手を、左の手で擦った。
もし鬼門の祠の結界を自分達の手で張りなおすなら、この妖に宿っている宝珠の御魂を取り出す必要がある。宝珠の御魂を使って瘴気を封印するためにも、この妖は自分達の監視下におくべきだろう。
瘴気に当てられたのならば尚更だ。紅緒は和泉家の長に視線を返した。
「そうだな」
月彦は同意しつつも、返事に苦々しさを含めていた。
「白狐を捕縛したまま、となれば、妖達も黙ってはいないだろう」
あまり、人間中心に振る舞っていると、この地の妖達が暴動を起こすことだろう。白狐と対比関係にある赤狐の姿も確認されている。今回の一件を、北の頭領である赤狐が知ったらどう思うだろうか。無用な血は流したくないのだが。
手っ取り早いのは、白狐と交渉し穏便に事を進めることだ。そうすれば、多少の手荒い真似にも白狐が仲介人となり、赤狐を含む他の妖達を宥めてくれるだろう。
だが白狐がこの調子では、話し合いにすらならない。この若い白狐が、人語を喋れるのか、通じるのかすらも怪しいところである。
「この白狐は桁違いの妖気を持っているようですが、その妖気には常に乱れがあります。妖になりたて、なのかもしれませんね」
おおかた、狐から妖になった若造なのだろう。紅緒は、自分なりの分析を傍聴者に告げる。
取り敢えず、白狐の気が落ち着くまで待つしかない。
瘴気に当てられ、気が狂っているようなら、妖達の反感を買う覚悟で宝珠の御魂を取り出すべきだ。それができないのならば、白狐ごと鬼門の祠に封じてしまうかだ。気狂いの妖を外界に放置することはできない。
かといって、桁違いの妖力を持つ白狐を、相手に調伏するのにも手こずるだろう。
この妖ごと鬼門の祠に封じることが、最善の手になるかもしれない、楢崎の長は淡々と言った。
「勿論、そんなことをしまえば、赤狐達の怒りを買うのは一目瞭然。報復は避けられないでしょう」
白狐の瞼がゆるりと持ち上がる。目覚めたようだ。
数回の瞬きを繰り返し、顔を持ち上げてぐるりと周囲を確認した白狐は、思い出したかのように足腰を立たせると、朔夜達に向かって身を投げた。
反射的にその場から飛び退く妖祓達を尻目に、白狐は結界を打ち崩そうと、幾度も身を投げる。しかし魔封の呪符の効力により、押入れから出ることは出来ず、勢いの反動で後ろへ倒れてしまった。
クン。一鳴きする妖は、よろめきながらも再び身を起こすと、結界を破ろうと勢い任せに身を投げる。魔封の呪符と妖が衝突を繰り返す度に、妖気の波紋が広がり、その場にいた妖祓達の肌を粟立たせた。
(凄い。魔封の呪符が震えている。獣型にも関わらず、凄まじい妖力だ)
朔夜は驚愕した。枠に貼られた呪符が、忙しなく微動している。妖を封じるための魔封はどんな妖にも対抗できるよう、強い呪いが掛けられているというのに。
「白狐。落ち着きなさい! 我々は貴方に、無用な危害を加えません」
紅緒が声音を張るが、白狐は聞く耳を持たず、ここから出せと言わんばかりに吠え、身をぶつけている。
捕縛されている相手にとって、到底落ち着ける状況ではないだろう。手足には妖力が自由に使えぬよう呪符が貼られ、狭い押入れに閉じ込めているのだから。妖型になれば相手も魔封の呪符を破れるかもしれないが、獣型のままでは無理だろう。
用心のため、魔封の呪符の力を強めようと、朔と時貞が各々念を唱え始める。これでは手の足も出まい。ご愁傷様だと朔夜は心中で皮肉った。
(瘴気に当てられて気が狂っているなら、早いところ鬼門の祠とやらに宝珠ごと封じてしまえばいいのに)
思った刹那、白狐が飛鳥を、自分を助けた夜を思い出す――どうして敵である人間の妖祓を助けようとしたのだろう? 朔夜には、妖の気まぐれがまったく理解できなかった。
約束の刻が迫っていたため、白狐のことは長達に任せ、朔夜は飛鳥と共に自宅を発つ。
待ち合わせ場所は、近所のバス停。三人でバスに乗り、地元ではちょっとした花見スポットとなっている、池の畔に向かうのだ。桜の並木道があると有名な池の畔は、花見シーズンになると人で賑わう。
しかし。暮れ始める空気の肌寒さを感じる限り、まだ花見には早いだろうと二人は話していた。
果たして、桜は花開いているだろうか。蕾が膨らんでいることすら怪しいのだが、幼馴染の我が儘だ。毎度のようにドタキャンしていた負い目もあるし、ここは文句を言わずにいこう。
「ショウくん。遅いね……もう、約束から一時間経ったよ」
ベンチに腰掛け、飛鳥は憂慮ある吐息をついた。隣で朔夜は時間を確認する。彼女の言う通り、携帯のデジタル文字は六時を示していた。
ああ、困ったことになってしまった。
春休み最終日に花見をしようと計画を立て、このバス停に五時集合と決めたというのに、花見に行きたいと言っていた本人が一向に姿を現さないのである。
最初こそ単なる遅刻だと高を括り、後どれくらいで着くか、連絡してくれるようLINEをしたのだが反応はない。既読は付いているのに。
ならば、直接電話するしかない。そう思って相手の携帯と自宅、両方に掛けるものの、誰も電話に出てくれない。お手上げ状態だ。予定では夕方ごろから、ぼちぼちと花を見て、暮夜にファミレスで食事を取るはずだったのだが、早々に狂ってしまった。
「何か遭ったのかな。ショウくん、いつも約束の時間よりも早く来るのに」
飛鳥がそわそわと、周囲を見渡している。遅刻に対する怒りよりも、心配が優っているようだ。
まさか、土壇場でキャンセル、なんてこともありえるだろうか。それが仕返しと、言われてしまえば、ぐうの音も出ないが、彼に限って、そんなことはありえないだろう。
「猫又おばあちゃんのところに行っちゃった、とか」
可能性は否定できない。彼は猫又に憑りつかれている。現在進行形で。
「あと三十分待ってみようか。それで、来なかったら家に行ってみよう」
うん。小さく頷く飛鳥に、何か気を逸らせるような話題を振ろうか、と考える。しかし、出てくる話題といえば、仕様のないものばかり。今朝、米倉と会話した合コンの話題も、脳裏に過ぎったが、空気を悪くするだけだ。
ああ、こういう時、翔であれば、持ち前の明るさで乗り切るのだろう。気遣い下手な自分に、なんとなく自己嫌悪してしまう。
(ショウ。早く連絡してくれよ)
祈るように携帯を見つめていると、タイミング良く着信が鳴った。ディスプレイに表示された名前にホッと安堵の息をつき、急いで電話に出る。
「ショウ。何しているんだい。早く来てくれよ」
開口一番に毒づく。
一時間も遅刻している上に、連絡もしないなんてマナー違反ではないか、と悪態をつくが、向こうから応答はない。風の音やバイクの音ばかりが受話器から聞こえてくる。
「ショウ?」
朔夜は訝しげに眉を顰める。
『翔くんは君達の前には現れないよ』
ようやく、返ってきたのは聞きなれない声。表情を硬くし、誰だと身元を尋ねれば、自分は二人を知っている、と相手がおどける。
『和泉朔夜。楢崎飛鳥。南条翔くんの幼馴染で、表向きは高校生。裏では若き妖祓として暗躍している。そうだよね?』
もし間違った情報があるならば、ぜひぜひ教えて欲しい。電話の相手は笑声を零した。
心臓を鷲掴みされるような思いがした。動揺で声が震えないよう、小さく唾を飲み込む。
「何故、僕達を知っているんだい? 君は誰でショウは何処だ」
飛鳥も異変に気付いたのだろう。息を呑みながら聞き耳を立てている。電話の主は、飄々とした口振りで答えた。
『僕は翔くんを知っている。何処にいるのか、何をしているのか、どうして現れないのかも――翔くんは君達の前に現れない。だから約束は果たされない。花見は諦めるんだね。ああ、二人で行くのもありかもよ?』
相手のおどけに思わず携帯を握り締め、勢い良く腰を上げる。
「ふざけるな、お前は誰だ。なんでショウの携帯を持っているんだ!」
何者なのだと捲くし立てる、朔夜の言葉遣いは荒くなる一方だった。
珍しくも激情に駆られてしまう。それだけ、得体の知れない相手に畏怖の念を抱き、自分達の正体を知っている情報通に警戒心を抱き、幼馴染と連絡が取れない状況に不安を噛み締めているのだ。
向かい側の停留所にバスが停車する。おかげで音が聞きづらい。相手の反応を待っていると、それまで笑っていた相手が静かに名乗った。
『錦雪之介。それが、僕の名前だよ』
ベンチに腰掛けている飛鳥が、腕を引いてくる。眼を開く彼女は、妖気を感じると小声で呟いた。
弾かれたように顔を上げ、朔夜も片側三車線の道路の向こうを見つめると、下車する乗客の中にひとりだけ異質なオーラを纏う輩がいた。色で例えると仄か白。全体的に白い空気を醸し出している輩は、学生のようで、灰色の学ランが目を引く。
耳にスマホを当て、ズレ落ちそうな眼鏡を押している彼は、まるで自分達の視線を感じ取ったかのように顧みてきた。
口角を持ち上げる彼の口の動きと、朔夜の耳に届く声音が一致する。
『ああ、君達が翔くんの幼馴染さん達だね。こんにちは。ご覧の通り、僕は妖だよ』




