第662話 謝って! 全世界のすべてのベーシストに謝って!
――新たに部屋を借りることにした。
今までの部屋を防音仕様に改良し、演奏の音が外へ漏れない細工を施したわけだが、当然中にいる人には丸聞こえであり、真横で直接聞かされることになってしまう。
それはさすがに演奏する側としても気を遣うし申し訳ないので、とりあえずもう一部屋借りることにした。ちょうど隣の部屋が空いていたので、横並びの二部屋である。
それにしても、まさかこんな理由で部屋を追加することになるとはねぇ……。
五人一部屋での生活を始めたときは、やっぱりちょっと手狭で、そのうち部屋を増やすことも検討していたが、それでもなんやかんや一部屋でずっと過ごしてきて、このままずっと一部屋での共同生活が続くのかと思いきや――
……というか、よくよく考えると、なんか凄い生活よね。
だって五人一部屋だよ? 一部屋に五人もいるのよ? やっぱりどうやっても手狭で、独り言も独り言にならない空間だというのに、みんなよく普通に生活しているな……。
結局今も新しい部屋には演奏以外で寄らないし、もうみんなすっかり謎の共同生活に慣れてしまったんだろうね……。
……まぁいいや。冷静になって考えてみると謎で異常な共同生活のことはさておき、新しく借りた部屋についてだ。
やはりこちらも吸音ニスを塗りたくり、防音仕様に変更。これで誰かに遠慮することなく、思う存分演奏に明け暮れることができる。
というわけで、スカーレットさんのために完璧な演奏環境を用意させていただいた。
そして今日も、新しい防音室の中ではベースの音が鳴り響いている。今も僕の目の前には、情熱的にベースをかき鳴らす――リュミエスさんの姿が!
「……何故なのか」
「?」
「あ、いえ、なんでもないです」
まぁリュミエスさんがどうのという話ではないのだ。問題はスカーレットさんだ。最初は真面目に練習していたはずが、いつの間にやら練習をサボりがちになり、そしていつの間にやらスカーレットさんの代わりにリュミエスさんがベースを弾き始め、そして今はもうリュミエスさんしかベースを弾いていない。
なんなのだ。これはいったいどういうことなのか。
「やぁやぁ」
「あ、スカーレットさん」
噂をすればなんとやら。のほほんとした雰囲気で、スカーレットさんが防音室へとやってきた。
「今さら戻ってきて、どういうつもりですか」
「おぉ?」
ここはちょっと厳しく言わなければ。ピアノは一日サボると取り戻すのに三日掛かると聞いたことがある。たぶんベースもそんな感じのはずだ。知らんけど。
なので僕も心を鬼にして、ベースはそんなに甘いものじゃないと厳しく指導せねばならん。
「とはいえ、こうして戻ってきてくれたことは僕も嬉しいです。歓迎します」
「ふむ」
でもあんまり厳しいとパワハラって言われちゃうからね……。今はもうスパルタ教育なんて許される時代ではないのだ……。
「さぁスカーレットさん。また一緒に頑張りましょう」
「うん、でももうベースはいいかなって」
「…………」
こんなに優しくしているのにダメなのか……。なんならアメとムチを上手く使い分けることができたと思ったのに、それでも今の若い子は付いてきてくれないのか……。
……いや、まぁ別にスカーレットさんは若くはないが。
「そうですか。残念ですね……。スカーレットさんにベースは合わなかったですか?」
「あー。なんというか、しばらくベースを練習していて、ふと気が付いたことがあるんだ」
「気が付いたこと? はて、なんでしょうか?」
「なんかベースって――地味じゃない?」
「な……」
な、なんてことを……!
とんでもないことを言った! 今この人、言ってはいけないことを言いましたよ!? ベースを愛するすべての人を傷付けた! ベースを愛するすべての人がイラッとすることを言った!
謝って! 全世界のすべてのベーシストに謝って!
……まぁこの世界にはベーシストなんてほぼおらんわけだが。
今のところはリュミエスさんだけかな? とりあえずリュミエスさんに謝ってほしい。
「というかリュミエスさんですよ。リュミエスさんのベースを聴いても、スカーレットさんはそんなことが言えるのですか?」
「んん?」
そう問い掛けた後で、僕はリュミエスさんに視線を送った。
僕と目が合ったリュミエスさんは、僕の意図をしっかり読み取ってくれたようで、今までの練習のベースから――本気で聴かせるためのベースに切り替わった。
「おー、すごいなリュミエス」
「すごいですねぇ」
かっけーなーリュミエスさん。普段のクールすぎる佇まいからは想像できないようなファンキーでグルーヴィーなベースだ。
――いや、むしろ佇まいは変わっていないのか。普段通りクールな佇まいでありながら、この刺激的なベースラインを生み出しているのがむしろ格好良い。
「はー、大したもんだなぁリュミエス。ベースとは、こんなふうに表現することができるんだね」
「ふふふ。そうなのですよ。スカーレットさんもわかってくれましたか」
「何故アレク君が得意げになっているのか……」
それはやっぱり、僕が育てたわけだしさ。
まぁベースの演奏自体は何ひとつ教えてなくて、リュミエスさんが自分で試行錯誤していたのだけど、でもその様子を僕も近くで見守っていたし、そもそもベースも僕が作った物だし、だから僕が育てたと言っても過言ではないはず。
「けどなぁ、こんなものを見せられたら、なおのことベースを再開するわけにはいかないじゃないか」
「え? そうなんですか?」
「リュミエスと比べられてしまう」
「…………」
そうなのかな……。お手本になって良いと思うんだけど……。
「というわけでアレク君、次だ。次の楽器を希望する」
「えぇ……?」
次って言われてもな……。音楽に対する関心自体はあるらしく、そこは僕としても喜ばしいことではあるけれど、急に次を求められても……。
「えぇと、では、こちらを……」
「それはもういい」
とりあえずその辺に転がっていたビブラスラップをスカーレットさんに差し出してみたのだが、ペシッと断られてしまった。
ちょうど重りの部分をペシッとされたので、『カーッ』という音が無駄に防音室に鳴り響いた。
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