第378話 十日前の昨日
「うむ。我を忘れて引き抜いてしまった」
「どうしましょうかねこれ」
こんもりとテーブルに積まれたティッシュの山。いったいどうしたものか。
とりあえず僕はいらない。なにせ使いたいと思ったら、その場ですぐ取り出すことができるのだから。
「マスター、マスター」
「ん?」
「見てくださいこれ」
未だに僕からティッシュを引き抜き続けているナナさんが、僕にティッシュを見せてきた。
なんだろう? なんか変わったティッシュなのかな?
「えっと……ウェットティッシュに見えるけど?」
「確かにただのウェットティッシュにも見えますが、実は少し違うのです」
「違うの? じゃあなんなのかな?」
「実はこれ――洗顔シートなのです」
「洗顔シート?」
洗顔シート……。あー、あれか、顔を拭くやつか。洗顔シートとかフェイシャルペーパーとか、そういうやつだ。
「洗顔? 顔を洗うのか?」
「そうです。要は顔を拭くためのウェットティッシュです。試しにどうぞユグドラシル様」
「む? ふむ……」
ナナさんから洗顔シートを渡されたユグドラシルさんは、おそるおそるシートで顔を拭いた。
「……む、さっぱりする」
「何よりです」
さっぱりしたらしい。何よりだ。
いやしかし、そんな物までポケットから出てきてしまうんだな……。
ユグドラシルさんも『さっぱりする』とか言っているし、たぶん水だけじゃないんでしょ? いろいろ含まれていて、きっとヒアルロン酸とかも入ってるんでしょ? ……なんだかすごいね。
「さておき、とりあえずいい加減片付けようナナさん」
「そうですか? 他にもいろいろ引き抜けそうな予感があるのですが」
「それはまた後でね……」
他にどんな物が引き抜けるのか、そりゃあ僕も気になる。もはや知るのが若干怖くもあるが、やっぱり気にはなる。
とはいえ、もう時間も時間だ。朝から夢中になって検証を始めてしまっていたが、そろそろ朝ごはんの時間だ。検証は一区切りして、ティッシュを片付けよう。
「それで、出したティッシュはどうするのじゃ? スライムに全部くれてやるか?」
「そうですね。そうしましょうか」
本来なら、水に溶けるタイプのティッシュでなければトイレには流せないが、幸いにもこの世界のトイレはスライム式。どんなティッシュでも問題ない。スラ吉君がすぐさま処理してくれるさ。
「あるいは、マスターのポケットに戻せないですかね?」
「……え?」
何をめちゃくちゃなことを……と思ったのも束の間、ナナさんはテーブルのティッシュをいくつか掴むと、僕のポケットへぐいぐい押し込んできた。
いや、さすがに……。ナナさんそれはさすがに……。
「あ、消えましたよ?」
「え?」
「ポケットに入れたところ、消えました」
「えぇ……」
そうなんだ。戻せるんだ……。
めちゃくちゃだと思ったけど、めちゃくちゃなのは僕のポッケだったか……。
「……あ、ちょっと魔力が回復している」
「ほほう、そんな効果まで?」
どうやらティッシュを出すときには魔力が減るけど、戻すと魔力が回復するらしい。
なんというか、まだまだ僕のポケットティッシュには謎が隠されていそうだね……。
◇
「うむ。ではそろそろ帰るとするか」
「おや、そうですか」
みんなで朝食をとった後も、引き続きポケットティッシュの謎に迫っていた僕達だったが、しばらくしてユグドラシルさんから帰宅の旨を伝えられた。
「今回はアレクの転送を二度も見ることができたし、ポケットティッシュも興味深いものじゃった。ありがとうアレク、ナナ」
「いえいえ」
「またお越しくださいユグドラシル様」
何やらとても満足そうなユグドラシルさん。転送シーンもそうだし、ティッシュ引きも楽しそうだった。
よくよく考えると、どちらも楽しむには少し変わった催しだった気がしないでもないが、ユグドラシルさんが喜んでくれたのなら何よりである。
「昨日今日と、有意義な二日間じゃった。では――」
「…………うん? あ、そっか」
「む? どうしたアレク」
「いえ、大したことではないのですが、僕も外で用事があることを思い出しました。――というわけでユグドラシルさん、よろしければ森まで送りますよ」
「そうか? ふむ、では一緒に行くとするか。まぁ急いでいるわけでもない。ゆっくり行こう」
「……はい」
……別に僕は、『ゆっくり』なんて提案はしていないのだけど。
◇
森までゆっくり進み、『お疲れ様でしたー』と挨拶を交わしてからユグドラシルさんを見送った後――僕はちょっとした用事を済ませてから自宅へ戻ってきた。
そして部屋へ戻ったところで――ナナさんに捕まった。
「それで、いったい何をしてきたのですか? あんなふうに思わせぶりな発言をされたら、気になるじゃないですか」
「いや、別に大したことじゃないんだけどね……」
「で、なんですか?」
「うん。実はちょっと――ジスレアさんの診療所へ行ってきたんだ」
「診療所へ?」
ちょいと寄ってきたのだ。そこで軽く世間話をしつつ、治療をしてもらってきた。
その治療というのが――
「実は昨日、大ネズミのヘズラト君から落っこちたんだよね」
「おや、そんなことが……? それは災難でしたね」
「すごくない?」
「え……? いえ、別にすごくはないですが……」
「あ、そうじゃなくてさ、覚えていたのがすごくない?」
「はい……?」
我ながら、よく覚えていたと思う。
ユグドラシルさんが『有意義な二日間』と話したのを聞いて、ふと思い出したのだ。
ダンジョンで鳩との戦闘中、僕がヘズラト君から落鼠したのが――昨日のこと。もはやずいぶん前のことのように思えるが、実際には昨日の出来事。
「僕からすると――十日前かな? 十日前の話なんだよね」
「十日前ですか……?」
「昨日、レベル30のチートルーレットで天界へ行って――そこで二日。その後レベル35のチートルーレットで――さらに七日。それから一夜明けて――合計十日だよ」
「なるほど。マスターの中では十日も経っていたわけですか」
「そうなのよ。つまり僕からすると、昨日は十日前なのよ」
十日前の昨日のこと。――何やら文字にすると謎でしかない文章だが、日数や日付的にはそうなるのだ。
そんな十日前の昨日に落鼠したことを思い出して、ジスレア診療所で治療をしてもらったのである。
……といっても、実際のところはよくわからんけどね。
日付的には昨日だけど、それで僕が転がったときのダメージも昨日のダメージになるのか、それともやっぱり十日前のダメージになるのか、その辺りがわりと曖昧。
「なんだか不思議ですね。私からすると昨日は昨日ですが、マスターからすると昨日は十日前ですか」
「そうねぇ」
「あ、そういえばマスターは、ヘズラト君を天界で召喚したという話でしたが?」
「ん? あぁ、ヘズラト君はどのくらいだったかな? えーと……三日間かな? ヘズラト君は天界に三日いたんだと思う」
「それから一夜明けて……つまりヘズラト君がマスターを転がした昨日は、四日前になるわけですか」
「そうなるね」
確かに不思議な感覚だ。ナナさんからすると昨日は昨日で、僕からすると昨日は十日前。そしてヘズラト君からすると、昨日は四日前になるわけだ。
もはや昨日という言葉の意味が、よくわからなくなるね。
「…………あれ?」
「どうかしましたか?」
「さっきは『ヘズラト君が天界に三日いた』って話したけど……もしかしたら違ったかもしれない」
「そうなのですか? 計算違いですか?」
「計算違いというか…………天界から送還するのを忘れていた」
「……え?」
うっかりだ。うっかりヘズラト君の送還を忘れて、天界に置いてきちゃった……。
「とすると、ヘズラト君は今も天界にいるのですか……?」
「うん……」
思い返せば、僕が天界から転送されるとき、ディースさんやミコトさんと一緒にヘズラト君もいたような気がする……。
そして僕が転送される瞬間、『あれ……? アレクシス様、私は――!?』とかなんとかヘズラト君が言っていたような……。
……まいったな。そのこともすっかり忘れていた。
なにせ下界へ戻るとそのまま睡眠状態に入ってしまうため、どうしたって覚えているのは難しく……。
「どうしますかマスター?」
「どうしたもんかな……。今すぐ送還してもいいんだけど、とりあえずミコトさんを召喚して、今の状況を聞いてみようか」
もしかしたら天界をエンジョイしているかもしれないし、それならもう少しいてくれても構わない。
ディースさんとも仲良くしていた感じだったし、たぶん大変なことにはなっていないと思うんだけど……。
「今頃どうしているでしょう……」
「そうねぇ。どうしているかなぁ……」
「――借りてきた猫みたいになっていないといいですが」
「…………」
ちょっと洒落たことを言ったつもりなのか、軽くドヤ顔のナナさんである。
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