34.悪役令嬢は王太子殿下と再会する
余っていたリボンで子猫と戯れていたときだった。
「私がいなくても、ディアは寂しくなさそうだな?」
「シル!?」
前触れなく姿を見せたシルヴェスターに、慌てて立ち上がる。
本来なら王家の馬車が公爵家の門をくぐった時点で連絡がくるはずだ。
「驚く君の顔が見たかったんだが想定と違ったな。猫を飼いはじめたのか?」
「この子はヘレンの猫です。今日はじめて会って、見せてもらっていたの」
言いながら子猫をヘレンに預ける。
子猫を胸に抱いたヘレンが壁際に下がるのを、シルヴェスターは横目で見届けた。
それからソファに座ろうとするので、咄嗟に待ったをかける。
子猫が遊んでいたソファだ。抜け毛が少ないといっても、全くないわけじゃない。
テーブルと揃いになっている椅子を薦める。
「お待ちになって! お茶を飲まれるでしょう? こちらへどうぞ」
「ソファに何かあるのか?」
「先程まで子猫がいましたの。今座ったら毛がついてしまいます」
「なるほど、私のことを忘れるくらい楽しんでいたのだったな」
「忘れていません!」
束の間、子猫の可愛さに魅了されていただけだ。
知らせがあればすぐにシルヴェスターを出迎えにいった。
久しぶりの逢瀬はクラウディアも待ち望んでいたのだ。
ただちょっと、ほんのちょっと、子猫に気持ちがいっていたのは否定できないけれど。
優先事項は変わらない。
「ふっ、冗談だ。無邪気に子猫と戯れるディアも愛らしかったよ」
「もう……」
ふわりとした微笑と共に、指の背で頬を撫でられる。
(いつぶりかしら、こうしてシルを感じるのは)
何気ないやり取りが楽しくて、会話できるのが嬉しくて。
溢れる思いに、目元が染まる。
クラウディアも笑顔を返せば、ふと視界が陰った。
天気のせいではない。
軽い接触だったけれど、唇に余韻が残る。
「シル、困るわ」
思った以上にか細い声が出た。
(危ない)
熱が体の芯で燻りはじめる。
このままでは黄金の瞳に囚われる気がして身を捩った。
「ディア」
自分を呼ぶ、しっとりとした婚約者の声。
絶対に目を合わせてはいけないと一歩退く。
けれど伸びてきた腕から逃げる術はなかった――というより、逃げたくなかった。
もっと傍にいたい。
より深く繋がりたいと願ってしまう。
「ディア、私の愛しいディア」
熱を持った吐息に顔を撫でられる。
額に落ちるシルヴェスターの髪がくすぐったい。
(ダメだって、わかっているのに)
切ない熱に体が焦がれた。
腰へ回された腕の力強さに、身を任せたくなる。
シル、そう唇が喘ぐ。
二人の境界線が曖昧になる、正にそのとき。
「シル、今すぐディーから離れろ」
底冷えするほど冷え切った声に貫かれた。
反射的にクラウディアは、シルヴェスターの胸を両手で押し返す。
「お兄様……っ」
足早に近付いてきたヴァージルに腕を引かれた。
しかしシルヴェスターも、クラウディアを解放しようとはしない。
「小舅を呼んだ覚えはないが」
「お前が暴走するのを止めに来てやったというのに何て言い草だ。妹を離せ」
「断る」
クラウディアの頭越しに壮絶な睨み合いがはじまる。
そんな中、二人に挟まれる形になった当事者の一人は、両手で顔を覆っていた。
(わたくしったら、ヘレンたちが見ている前で何をしようとしていたの!?)
存在感を消してはいるが、壁際にはヘレンの他にも侍女が待機しているし、シルヴェスターが引き連れてきた護衛騎士たちもいる。
ヴァージルが止めに来なければ彼らの前で起こしていた事態に、赤面せずにはいられない。
「お兄様、助けてくださってありがとうございます」
「ディーはよくわかってるな。ほら、ディーもこう言っているんだ。とっとと離せ!」
「ディア……」
シルヴェスターは裏切りを受けたような悲しい表情を見せるが、クラウディアもここは引けない。
王太子にとって使用人は空気のようかもしれないけれど、クラウディアにとってヘレンは友人であり心の姉でもあるのだ。
そう簡単に割り切れるものではなかった。
味方を失ったことで、シルヴェスターはしぶしぶ腕の戒めを解く。
けれど完全には離れず、乞うように指先を握られた。
「ディー、このまま同席してやってもいいぞ?」
「いいえ、それは流石に遠慮させてくださいませ」
「そうか……」
若干、我を失ってしまったものの、逢瀬を邪魔されたいわけじゃない。
妹の確固たる拒絶に今度はヴァージルが眉尻を落とすことになったが、氷の貴公子は空気を読んだ。
無理を通してクラウディアに嫌われたくなかったのだろう。
ヴァージルが去るのを見届けて、シルヴェスターに着席を促す。
間にテーブルがあれば、間違いは起こらないはずだ。
先程の甘い雰囲気を取り戻すのは難しいと悟ったのか、シルヴェスターも大人しく椅子に腰を下ろした。
離れた体温が恋しくもあるけれど、指先は握られたままだった。
「ヘレン……は、手が離せないわね。誰か頭がすっきりするお茶を淹れてくれる?」
子猫がいたずらをしないよう、ヘレンは白い毛玉を胸に抱えていた。
体の熱を忘れるためなら、いっそ渋すぎるお茶でもいいかと思ったとき、シルヴェスターから提案を受ける。
「ディア、今すぐ結婚しよう」
「無理を言わないでくださいませ」




