32.男爵令息は公爵令息へ火花を散らす
ブライアンがヘレンをはじめて見たのは、リンジー公爵家の応接間でだった。
商品についての進捗を報告するために訪問した折のことだ。
書面でも良かったのだが、ぜひにとクラウディアから招待された。
移動には馬車を要する広大な敷地。
宮殿と見紛う公爵家の屋敷に、緊張が最高潮に達したのは言うまでもない。
口の中が乾いても出されたコップに手を伸ばせず、ただただ身を固くして待つこと十分。
(えっ、もう!?)
応接間に現れたクラウディアに慌てる。
一時間単位で待たされるのを覚悟していた。
他の貴族なら、それが当たり前だったから。
心の準備ができないままクラウディアと相対することになり、頭の中が真っ白になる。
学園の外で会うクラウディアは──女神のようであり、花の妖精のようでもあった。
揺れる黒髪が聖像のまとうベールに見え、そこへドレスの色彩が合わされば花を連想させる。
制服姿とはまた違う、神秘的でありつつも華やかな佇まいにブライアンは見惚れた。
息をするのを忘れ、かひゅっと喉が変な音を漏らしたところで呼吸を思いだす。
「ほ、本日はお招きいただき……」
震える声で挨拶するもののクラウディアを直視できない。
顔が熱かった。
一対一で会うには、自分が明らかに身分不相応であると感じられたから。
恥じ入る中、なんとか視線をそらした先に、ヘレンはいた。
(公爵家では、侍女も美人なんだな)
最初は純粋に、その美貌を讃えるだけだった。
舞台女優にもなれそうなスタイルと顔立ちに惹かれた。
十人いれば十人が抱きそうな感想が覆ったのは、クラウディアがヘレンに同意を求めたときだった。
能面のように温度さえ感じられなかった表情が。
一気に。
芽吹いた。
春の日差しを目いっぱいに浴びる新芽のごとく。
ヘレンの顔に色と温度が戻った瞬間、ブライアンは世界が変わったのを知覚した。
明確に何がとは言い表せない。
ただ確かに、感じたのだ。
笑みを浮かべるヘレンに頭がぼうっとする。
(あぁ、これが……)
恋なのか。
自覚するのは一瞬だった。
◆◆◆◆◆◆
ヘレン。元ホスキンス伯爵令嬢。
父親が事業に失敗し、貴族の品位を保てない理由から爵位を返上するに至り、平民となる。
夢現でリンジー公爵家から帰宅したブライアンだったが、帰るなり情報収集担当の者へ指示を出した。
表面的なことでもヘレンのことが知りたかった。
後日届けられた報告書を眺めては、目を閉じて反芻する。
(クラウディア様の専属侍女だから、貴族令嬢だとばかり思ってた)
公爵家ほどの家門なら、下級貴族の令嬢が奉公に出る。
(それが、まさか平民……)
ハーランド王国では、多額の負債を抱えた貴族は爵位の返上を求められる。この場合、領地は王家直轄領となった。
平民の手本となるべき品位を示せないなら、一からやり直せということだ。
だから逆に品位を示せるなら――国へ多額の寄付をおこなえるなら――平民でも貴族になれるのだ。
エバンズ男爵家もそうして爵位を得た。
得る者がいるなら、失う者もいて当然。
(伯爵令嬢時代に雇われたわけでもない。正真正銘ヘレンさんは、平民になってからクラウディア様に雇われたんだ)
厳密に言えば、ヘレンと雇用関係にあるのはリンジー公爵だ。
しかしクラウディアが推薦したことを鑑みれば、自ずと真の主従関係は見えてくる。
(クラウディア様は底が知れないな)
エバンズ商会が化粧水を売り出そうとしていること然り、ヘレン然り。
どこから情報を集めてくるのだろうか。
(リンジー公爵家ともなれば、諜報員ぐらいいても不思議じゃないけど……)
クラウディアが求めたものは、政治と全く関係ない。
ブライアンには諜報員が動く事案とは考えられなかった。
それはそうとして。
(おれにも、チャンスはあるのか)
男爵令息が伯爵令嬢に婚姻を求めるのは難しい。
もし相手側が王族派なら、中立とはいえ貴族派であるエバンズ男爵家の旗色は悪かった。
他にも貴族にはしがらみが多い。
けれど相手が平民なら根回しする必要はなく、気持ち次第でことは決まる。
そう考えると無意識に口端が上がった。まだ同じ土俵に立てたに過ぎないが。
(父さんたちは貴族令嬢とくっついて欲しいだろうけど、元伯爵令嬢でクラウディア様と懇意ともなれば、まず反対はされない)
むしろクラウディアの専属侍女である時点で、奨励されるだろう。
未来の王太子妃とも目されているクラウディアとの繋がりは何よりも代えがたい。
(あれ? そう考えるとヘレンさんって……)
チャンスがあると浮ついていた心が、さぁああっと冷める。
考えれば考えるほど、野心がある者にとってヘレンは格好の獲物だった。
既に下級貴族から婚姻の申し込みが殺到していも不思議じゃない。
(いや、待て、落ち着け。ヘレンさんにはクラウディア様がいる)
今の社交界において、これほど大きな後ろ盾は王家以外に存在しない。
もし下手を打ってクラウディアの勘気をこうむれば、下級貴族なんて即没落だ。
あの二人の親密なやり取りを見ればわかる。
(クラウディア様がヘレンさんを守ってくださる。だからおれは)
二人に認められる男になる。
まだ学生の身分でできることは少ないけれど、化粧水の事業にはブライアンも関わっていた。
(何としても成功させて、点数を稼ぐぞ!)
胸にやる気の炎を燃やす。
メラメラと体を熱くさせるブライアンに壁が立ちはだかったのは、定期報告のためリンジー公爵家を訪ねたときだった。
応接間へ案内される道中、一人でいるヘレンを見つけた。
いつもクラウディアの傍にいる彼女にしては珍しい。
今こそ声をかける機会だと口を開いた瞬間――先を越された。
長身で黒髪の美青年がヘレンを呼びとめる。
妹と違い、全くクセのない黒髪は、歩調に合わせてさらりと揺れていた。
(リンジー公爵令息……っ)
氷の貴公子とあだ名される、公爵家の跡取り。
妹の前ではその永久凍土も溶けると噂されているが、ヘレンへ向ける眼差しにも温度があることにブライアンは気付いた。
(いや、まさか)
自分の恋敵がヴァージルであるなんて。
信じたくない。
けれど主人が侍女に手を出すのは、よく聞く話で。
(いやいや、リンジー公爵令息はそんなことしないだろ)
権力に物を言わせてヘレンを妾になんて、まずクラウディアが許さない。
しかし、もし自分と同じように恋心を抱いていたら?
(ヤバい、勝てる気がしない)
何と言っても、相手は公爵家の跡取りだ。
平民を娶るのは無理でも、ヘレンを縁ある貴族の養子にすれば身分差はクリアできる。
しかもこの間まで伯爵令嬢だったことを含めれば、反対する声も小さくなるだろう。
(待て、逆に考えるんだ。まだ勝機はあると)
相手が質の悪い貴族だったら、下級貴族であるブライアンは手も足も出せなかった。
けれど礼節を重んじるヴァージルなら、ヘレンの気持ちを何より尊重するはずだ。
(そうだ、恋敵がリンジー公爵令息でも、やることは変わらない)
ヘレンの気持ちを射止めた者が、勝つ!
ふつふつと体の芯からこめかみにかけて熱がともっていく。
壁は高いほど乗り越え甲斐があるというものだ。
商売でも難しい局面にぶつかることは多々あった。それらに打ち勝ってきたからこそ、今のエバンズ男爵家がある。
(よぉーし! やってやる!)
ヴァージルの視界に映らないところで、ブライアンは静かに闘志を燃やした。
後日、クラウディアに至らない点を指摘されて頭を抱えることを、彼はまだ知らない。




